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〜高野山:金剛峯寺は蓮の花托の位置に(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
弘法大師(空海)が、留学生(るがくしょう)として唐に渡航して密教の奥義を学んで帰国し、時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは、平安時代の816年のことでした。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものだそうです。
【日本に密教が世に出た頃のお話】 第12回 嵯峨天皇と最澄、空海 - 裏辺研究所より
日本の密教の成り立ちを知るには、第12回 嵯峨天皇と最澄、空海 - 裏辺研究所が分かりやすくてとっても面白いものでしたので、少し簡略してご紹介します。
ただし、天台宗にとっては悪口にもなりかねないので、便宜上「ほんまか嘘か知らんけど」と言っておきます。
密教の2大勢力としては、皆さんご存知のように天台宗と真言宗があります。
最澄は滋賀県の出身で東大寺で受戒した後、比叡山で修行生活に入ります。その中で、「仏教の中でも天台教学が魅力的だ」と考え、804年に遣唐使船に乗り込み唐へ留学、天台教と真言密教を学んで帰国。天台宗を開き、奈良を中心に栄えた南都六宗と総称される既存の仏教勢力から独立した新しい仏教を比叡山に開きます。
一方、空海は香川県の出身。修行をしている内に、大和の久米寺で「大日経」をみてから、「密教を学びたい!」と考えるようになり、最澄と同時期に唐へ渡りました。そして、唐の密教界で もの凄く偉いお坊さん(恵果:けいか)から「お前さんは超優秀じゃ。よし、ワシの全てを授けよう」
として、密教と、それに必要な多くの経典や仏具、曼荼羅(まんだら)を授けられ、また様々な中国文化も吸収し、2年で帰国。そして、真言宗を開き、京都の高雄山寺(→神護寺)で活動を開始しました。 これを聞いた最澄は、自身も密教を学んだこともあって「私も教えを乞いに行こう」 と、空海と親しく交わるようになり、812年には最澄は空海から灌頂(かんじょう:頭の上に水をそそぎかける、仏教での重要な儀式)を授けられました。ですが・・・。 4年後、教義を巡って二人は対立、しかも最澄の愛弟子が空海の下へ去ったこともあって絶交してしまいます。 その後、最澄は法相宗と激しく論戦を繰り広げたり、福岡県や関東地方を巡幸するなど、精力的に活動。「仏法によって国家をまもること(=鎮護国家)」を目標とし、天台宗の地位を上げていき、822年に亡くなりました。その後最澄の弟子である円仁、円珍は密教の教えを本格的に取り入れます。 ちなみに、いまでも多くの人が巡る四国八十八カ所、すなわち「お遍路」は、空海が修行したといわれる足跡をたどるもので、平安末期から行われていたそうです。 こうして次第に仏教が本格的に庶民の間にも浸透すると、日本古来の神々と次第に結びついてゆきます(神仏習合)。神社の中に寺が出来たり、その逆の例も・・・・それから、天台宗や真言宗は山中での厳しい修行をメインとするため、日本古来からの山岳崇拝と結びついて、山伏に代表されるような、修験道の源となってゆきます。
これで、私も皆さんも、真言密教の全てを知った気になりましたよね。(そんなワケないけど。)
それにしても金剛峯寺は壮大です。以下の画像でもお分かり頂けるように、広角レンズを使っても真正面から全体を写すことはできません。
そこで次回は、
魚眼で撮影した金剛峯寺の画像をご紹介し、合わせてその構造と歴史などを記します。
この高野山俯瞰図に蓮の花をだぶらせて見ることができますか?山上の曼荼羅世界に。
曼荼羅(まんだら:京都市、東寺)
曼荼羅(まんだら)は密教仏教において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを
仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したもの。「曼陀羅」と表記することもある 蓮の花
高野山が曼荼羅の象徴 八華蓮華なら、花托(かたく)の位置にあるのが壇上伽藍や金剛峯寺 手間の橋より金剛峯寺を望む
散りかけてはいますが、ゴールデンウィークに枝垂れ桜がまだ咲いていました。
金剛峯寺 正門(表側)
金剛峯寺 正門(境内側)
金剛峯寺 大主殿
超広角レンズを使っても斜めからの撮影でなければ本堂全体を写せません。
金剛峯寺 大主殿 金剛峯寺 玄関部以外の大主殿 金剛峯寺 大主殿の大玄関と小玄関(こげんかん) |
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