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〜高野山:金剛峯寺で切腹した秀次の話と会下門・経蔵(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
金剛峯寺にまつわるお話としては、豊臣秀次の切腹が有名ですが、
その切腹は秀吉の命だというこれまでの定説を疑問視する新説がごく最近発表されています。
【秀次切腹の新説とその根拠】
豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、おいの関白秀次が邪魔になって切腹させた−。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表されました。
秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、興味深い説だと評価する研究者もいるそうです。
秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。
切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。 矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。 そこでさまざまな史料を調べた結果、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に着目。「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」と推測する。 また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきで、「秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。 【秀次切腹 従来説色々】
秀次は、秀吉の嫡男・鶴松が死去したために秀吉の養子に迎え入れられ、12月に関白に就任しました。
関白就任後の秀次は大阪城ではなく聚楽第に居住して政務を行ったが、全権を譲り受けたわけではなく、秀吉もまた政務に大いなる力を有していました。
その後、秀吉は朝鮮出兵に専念する間、秀次が秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。
しかし秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになります。秀吉は前田利家を仲介人として秀頼と秀次の娘を婚約させ、日本を5つに分けてその4つを秀次に、1つを秀頼に与えると約束するなど互いに譲歩も試みます。
ところが何らかの理由で秀吉の怒りをかった秀次は、秀吉の命令で伏見城に登城するが、秀吉と面会できぬまま高野山に追放され、出家し道意と号したが、追放の七日後には切腹を命じられ
「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」
という辞世の句を残し、青巌寺・柳の間にて、28歳の生涯を閉じます。
さらに、一族郎党は、京都 三条河原の秀次の首が晒(さら)した前で、幼子にいたるまで(例外あり)処刑されます。
ちなみに、切腹を命じられた理由には以下のような説があります。
① 秀次が病を得たため暇を出された秀吉のもと側室を勝手に継室(後妻)した事を石田三成の告げ口で知った秀吉が、嫉妬に狂って罪状をでっち上げて処断したとする説
② 秀吉が秀次を養子にして関白職を譲った後に秀頼が生まれてしまい、我が子可愛さに秀次に後嗣権を与えてしまった事に後悔したという説
③ 秀次が「弓・鉄砲の稽古だ」と言って村へ出ては、罪のない領民を的にして射殺したり、妊婦を見つけてはその腹を裂いたり、あげくの果てに殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだとされる乱行を繰り返したためとする説
④ 秀次が秀吉に無断で朝廷に多額の献金を行なった事を秀吉や三成らが謀反の準備と判断したとする説
⑤ 秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを行なっていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説
⑥ ⑤の借財で特に毛利輝元に対して秀次はかなりの額を貸し付けており、輝元はとても返しきれないくらい借金していたのだが、秀次と秀吉の関係悪化を見て秀次派として処分されるのを恐れ自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説
【秀次切腹の影響】
秀吉の秀次に対する怒りが、どんな理由であれ、一度出家した者に切腹を要求する事も、武家とはいえ、天下人の後を継ぐ地位にあった関白が、失脚早々に切腹を申し付けられ梟首となったことも、当時としても考えられないことで、公家社会に衝撃を与えた。それに輪をかけて切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、このような苛烈な仕置は、豊臣政権崩壊へと繋がることにもなった。
近年の歴史学者の中には、秀吉切腹の影響として
① 政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深刻化した。
② 秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える重臣が全く存在しない危険な状態になった。
③ 秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因。
などと評する方がおられるそうです。
金剛峯寺柳の間=秀次が切腹した青巌寺・柳の間
山本探斉(やまもとたんさい)による柳鷺図(りゅうろず)が描かれていることから柳の間と呼ばれています。この座敷は、文禄4年(1595年)に豊臣秀次(ひでつぐ 二代目関白)が自害したことから「秀次自刃(じじん)の間」ともいわれています。
長屋門形式の金剛峯寺 会下門(えかもん)
県指定文化財
金剛峯寺 経蔵(きょうぞう)とシャクナゲ
金剛峯寺 経蔵(きょうぞう)
県指定文化財
正門をくぐって左手に見える経蔵は、延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように主殿(しゅでん)とは別に建てられました。
ところが大阪天満の伊川屋について調べて見ても全く分かりません(他にも検索してみた人のページは有りましたが、同じくダメだったようです)。
【NHK木曜時代劇】 の『銀二貫:原作/高田郁』 2014年4月10日(木)放送開始し、既に終了。には、大坂天満の寒天問屋井川屋が登場しますが、伊川屋ではないので全く関係ないのでしょうね。
シャクナゲ
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