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〜高野山:壇上伽藍の中門ほぼ完成(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
かつて、壇上伽藍金堂正面の手前、一段低いところには、中門と呼ばれる門が建っていました。
五間二階の楼門で、両脇には持国天(じこくてん)像(東)・毘沙門天(びしゃもんてん)像(西)がまつられていましたが、天保14年(1843年))9月に壇場を襲った大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くし、それ以降約170年間中門は今日に至るまで再建されず、礎石を残すのみでした。
http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/cyumon/dscn1738_thumb.jpg http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/cyumon/dsc_3196_thumb.jpg
金堂前の中門跡 中門跡の発掘作業 大門が高野山全体の総門であるのに対して、中門は、浄域である伽藍を結界する重要な門といえるもので、高野山には無くてはならない存在です。 そして来年の平成27年は、高野山開創1200年記念大法会が執行されます。この記念事業の一環として、平成23年から中門の再建計画が始まり、現在、再建工事が進められています。
以上は伽藍 中門跡 高野山霊宝館に記されている内容ですが、
私も昨年〜魚眼で見る 高野山(世界遺産) 金堂と再建中の中門とは:目線は〜の中で再建中の中門についてふれ、「さて金堂前では中門が再建中です・・・・・ただし、画像はありません。倉庫のような箱物に囲まれた再建中の中門を撮影する気にはなりませんでした。」
と記しました。
そして今年(2014年)、5月4日に訪れてみると、再建中の中門をスッポリ囲んでいた倉庫のような箱物は既にとれ、以下の画像でお分かりのように、外観はほぼ完成していまいた。
ただし、かつて中門の両脇に置されていた場所に持国天(じこくてん)像(東)・毘沙門天(びしゃもんてん)像(西)はなく、中門の周りには工事用のフェンスが立ち並んでいて、立ち入ることもできず、カメラを持った手を高く差し上げてようやく届くフェンスの上からの撮影でした。
【平安時代の中門】
平安時代における中門のことを記した資料は、現在、知られていません。江戸時代の記録(『紀伊続風土記』)には、古くは金堂の前庭(石段の上)にあって、三間一階の門であったことが記されています。
平成18年から三次にわたって行われた現在の中門跡の遺構発掘調査では、9世紀以前の遺構が見つからず、その上層の遺構からは11世紀〜12世紀の土師器片が数点出土しています。つまり現在の中門跡に建造物が建ったのは、平安時代も後期以降であったことがわかりました。 【中世期の中門(永治の移築)】
ところで、中門を含む壇上伽藍の建造物は、幾たびもの火災にようる焼失を繰り返してきたのですが、『諸伽藍巡礼次第』(金剛峯寺)という書物には、中門は永治元年(1141)に金堂前(石段上)から現在の中門跡の位置に移築されたことが記されています。
この時に中門の多聞、持国の二天像を彫刻したのは美作(岡山県美作郡)住人「能光」という仏師でした。
実は私、この仏師「能光」の「能光尊」という供養塔を、偶然にしてよくわからないまま今年の4月19日に訪れ、撮影していました。
現在は、『高野山編シリーズ』の中の1ページですが、「能光尊」については、いずれご紹介することになる『九度山町ぶらりシリーズ』で改めてご紹介しようと思っていますが、ここでは、「能光尊」のアップ画像のみをご紹介しておきます。
【中世期の中門(建長5年[1253]の再建)】
永治元年(1141)の移築以降、中門の焼失記録はありませんが、建長5年(1253)には再建されています。この時、それまでの三間一階であった建物の規模を、五間二階の楼門へと改められました。棟札の写しには次のように記されています。
「金剛峯寺中門棟上建久(長の間違い)五年癸丑七月二七日願主検校良覚行事弘印 年預山龍融恵 修理源俊」 その後、江戸時代にいたるまで中門に関する記録がありません。次に記録上現れるのが安永3年(1774)9月で、このときには建物は類焼しましたが、二天像は無事であったとされています。 絵図に描かれている中門
中世期の伽藍絵図に記される中門です。 建長5年(1253)5月、それまで三間一階だったものを五間二階の楼門に改めた記録があります。 以後、この形式は、天保14年(1843)に焼失するまで継承されました。 http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/cyumon/1658_thumb.jpg http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/cyumon/1706_thumb.jpg
万治元年(1658) 絵図にみる中門 宝永3年(1706)絵図にみる中門
【近世の中門(安永8年(1779)の再建)】
安永3年(1774)に焼失した中門は、その5年後の安永8年(1779)に再建されました。比較的早い段階での再建となったのは、紀州藩士である福田儀左衛門藤原正勝が福田氏の宿願として再建したことによりました。
【近世の中門(文政3年(1820)の再建)】
文化6年(1809)の中門焼失後、11年を経た文政3年(1820)10月3日に再建されました。この時の二天像は、文化6年の火災の際に剥ぎ取った御手と天衣の一部を再利用して、文化12年(1815)に京都の塩釜浄而法橋という仏師によって造立されました。この時の仏像修理費用は、阿波藩士蜂須賀主殿の寄附によったことが、『紀伊続風土記』に記されています。
再建大工は、安永8年(1779)再建時と同じく正大工狭間河内で、権大工は小佐田出羽と記録されています。 正大工の名は46年前の再建時と同じですが、権大工は小佐田出羽となっており、佐田に「小」を付けていることから世代交代している可能性が考えられます。 天保9年(1838)絵図にみる中門
中門が焼失する5年前に描かれた絵図です。 【天保14年の火災で中門焼失】
文政3年(1820)の再建から、わずか23年後の天保14年(1843)9月、またしても伽藍で火災が発生し、大塔、金堂、御影堂をはじめ伽藍の諸堂とともに中門も焼失してしまいました。この時、二天像は救い出されましたが、頭部などに大きく損傷を受けたらしく、嘉永7年(1854)に京都仏師である川本右京康直によって両像の頭部が新たに造りなおされました。これは二天像の頭部内墨書銘から判明します。 その後、中門は再建されず、明治34年になって再建発起人が現われましたが、結果的には成就しませんでした。現在、平成27年に向けて再建中となっています。 二天像の方は長らく西塔に仮安置となっていましたが、平成11年になって根本大塔内へ移されました。平成24年からは本格的な解体修理が施されています。 修理中の持国天立像
写真提供:松本明慶工房 上の図の 「対面桜」「登天松と杓子芝」「倒指藤」「西行桜」「三鈷の松」「根本大塔」 「金堂」「御影堂」「准胝堂」「孔雀堂」「西塔」「御社」「六角経蔵」「中門跡」「蓮池」 をクリックすると、「よもやま記」解説にリンクしています。
持国天(じこくてん)像(東) 毘沙門天(びしゃもんてん)像(西)
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