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〜高野山:金剛三昧院の本坊となぜ北条政子が?の話(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
皆さんもご存知のように、高野山は長い間 女人禁制でした。そしてそれは、尼将軍と言われた北条政子ですら例外ではありませんでした。
なのになぜ北条政子は、高野山の金剛三昧院に夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔(とむら)うために建立することを考え、そのことを実現することができたのかと、皆さんは思われませんでしたか?
今回はこの疑問に対する答えを求めて調べを進めました。 まず金剛三昧院の記述を見ると、『金剛三昧院と鎌倉幕府』と題して以下のように記しています。
「鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻 、尼将軍と呼ばれた政子が 貞応2年(1223年)頼朝追善のため建立
安達景盛(あだち かげもり:将軍実朝の死により出家。法名大蓮房覚智(地)(だいれんぼうかくち)と号した。高野山に入り金剛三昧院建立に尽力。出家後も幕府の実力者であり続けた。)景盛の存在により高野山は鎌倉幕府と強い関係を持つことになった。」 これで安達景盛という元家臣の存在によって高野山に金剛三昧院を建立することが出来た事はわかります。ですが安達景盛と北条政子のつながりはどのようなものだったのでしょうね。
そこで安達景盛 - Wikipediaの記述です。
「安達盛長の嫡男(ちゃくなん:あととり)。安達景盛(あだち かげもり)の父盛長は源頼朝の流人時代からの側近であり、幕府草創に功のあった宿老であった。頼朝死後に跡を継いだ2代将軍・源頼家と景盛は不仲であったと見られ、頼家の代となって半年後の正治元年(1199年)7月から8月にかけて、景盛が頼家から愛妾(気に入りのめかけ)を奪われ誅殺(罪をとがめて殺すこと)されようとした所を、頼朝未亡人・政子に救われるという事件が『吾妻鏡』の景盛の記事初見に見られる。
鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる。
3代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱では旧友であった。・・・・・」
ということで安達景盛の父は源頼朝の側近で、安達景盛自身も3代将軍 源実朝と北条政子の信頼厚い側近で、安達景盛にとって北条政子は命の恩人だということも分かる。
と同時に、安達景盛は安達氏の嫡男(ちゃくなん)ですが、母の実家=比企氏は、安達景盛を殺そうとした2代将軍源頼家の後ろ盾でした。
母の実家(比企氏)が後ろ盾となっていた2代将軍源頼家が安達景盛を殺そうとしたことを『吾妻鏡』において特に記しているのは、安達氏が2代将軍源頼家の勢力から離反し、命の恩人である北条正子側(3代将軍 源実朝と北条政子)の勢力についたことの合理性の正当化を狙てのことのように思えるとしています。その理由として、『吾妻鏡』を書いたのが、2代将軍源頼家の死後、実権を握った北条氏の一族だからと。
私には、安達景盛 - Wikipediaのこの事件についての記述が、史実とは限らないことを匂わせているよにすら見えます。
ちなみに、安達景盛の母(丹後内侍たんごのないし)は、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の長女です。
つまり、安達景盛の母方(比企氏)が2代将軍源頼家の後ろ盾になった理由は、安達景盛の祖母(比企尼(ひきのあま)が乳母をつとめた源頼朝の嫡男(ちゃくなん)だったからでしょう。
そして、『吾妻鏡』には、源頼朝の嫡男(ちゃくなん)である2代将軍源頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話(そうわ:物語や事件の本筋の間に挿入される短いまとまった話)が並べられているそうです。
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この金剛三味院に小生の祖父母が眠っております。
もう長らく足が遠のいているので、たまにはお参りに行かなければならないですね。
ナイスです。
2014/6/14(土) 午後 9:14
ガラパゴスさん
だから度々高野山に行かれているのですね。
愛染明王の本尊に見守られ、幸せなお祖父さん夫婦ですね。
2014/6/14(土) 午後 9:36 [ 上から目線 ]