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〜高野山:壇上伽藍 大会堂と(だいえどう)と阿弥陀三尊(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
大会堂なぜ五色の幕が?→頌子内親王が
壇上伽藍にある大会堂と(だいえどう)は、愛染堂の隣にあるやや大きなお堂で、臨終の場において、迎えに来る(来迎信仰)という阿弥陀三尊、つまり本尊の阿弥陀如来と、観世音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)が祀られています。
以下にご紹介している私の撮影した大会堂の画像には、五色の幕が張られていますが、これは、以下に記した【阿弥陀如来】の文章中にある、「日本でも臨終に際して、阿弥陀如来の像と亡くなる人の手を五色の糸で結びます。」という習わしに由来するのでしょう。
大会堂の前身は1175年(安元元年)、鳥羽法王の第7皇女である頌子内親王(しょうしorのぶこ ないしんのう五辻斎院)が願主となり、鳥羽法王の菩提を弔うために創建した「蓮華乗院」です。
蓮華乗院の造営にあたっては、歌人の西行が奉行となり、勧進を勤めました。西行は出家前、頌子内親王の祖父・徳大寺実能の家人であり、鳥羽法皇の北面の武士でもありました。
もとは東別所(刈萱堂の辺り)に建てられましたが、1177年(治承元年)にこの場所に移築されました。その後、高野山から分派して対立していた根来寺(新義真言宗・大伝法院方)と和解するための談義の場としても使われました。 現在の建物は江戸時代末期・嘉永元年(1848年)の再建で、法会の際の集会所となっています。 15メートル四方の大きなお堂で、鳥羽法皇の皇女であった五辻斎院頌子内親王の御発願により、父帝御追福のため建てられた。壇上で法要を営む場合ここに会合して法衣に着替え、威儀を整える場所となりました。
鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所からこの場所へ移された徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から大会堂と呼ばれています。現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたものです。本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至(せいし)菩薩が祀られています。
【頌子内親王について】
歌人西行は、頌子にとっては祖父実能の家人であり、父鳥羽院の北面武士でもありました。こうした縁もあり、鳥羽院追善を目的とした蓮華乗院の造営にあたっては、当時高野山に住していた西行が勧進を勤めています。頌子は蓮華乗院の維持費用として、相続した紀伊国の南部庄から水田10町を寄進しています。創建から2年後の1177年(治承元年)には早くも蓮華乗院が東別所から壇上伽藍に移築され、金剛峰寺方(高野山)と大伝法院(根来寺)方の争論を和解させるための談義の場として用いられました。その後も頌子は、南部庄からの収入を蓮華乗院仏聖灯油及び談義僧供料に充てるなどして後援し、1194年(建久5年)には、約200町ある同庄全体を、隣接の相楽庄約30町と共に、蓮華乗院に寄進することを決めています。
【北面の武士とは】
北面武士(ほくめんのぶし)は、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士です。11世紀末に白河法皇が院の直属軍として創設しました。
この頃、寺社の僧や僧兵、神人は、仏罰・神罰や武力を振りかざして、幕府や朝廷に対し自らの要求を通そうとする強訴が多々あり、これを防ぐために設けられた役職です。
【阿弥陀如来】 なるほど仏教百科事典より
阿弥陀とは、サンスクリット語のアミターバの音写語であり、「無限の光」をあらわしています。阿弥陀如来の放つ光は、すべてを照らすとされ、その光に照らされたものは、あらゆる苦しみから救われるといわれています。そのようなところから、阿弥陀は、無量光、無量寿とも呼ばれています。阿弥陀如来は、念仏するものを必ず西方極楽浄土に導くといわれています。
阿弥陀如来の姿は、ほとんど釈迦如来の姿と変わりませんが、手の印相が異なっています。阿弥陀如来の手の印相には、説法印、阿弥陀定印、来迎印の三つがあります。説法印というのは、親指と中指で輪を作りお腹の前で向かい合わせたものなどがあります。阿弥陀定印というのは、最も一般的であり、両手の人差し指と親指で輪を作り、その接点を合わせて膝の上で両手を重ねています。来迎印は、右手を上げ、左手を下げた形をしています。これら三つの印において、親指とどの指を組み合わせるかによって、九種類の印相があります。 中国では、不老長寿の信仰と結びついて、阿弥陀信仰が盛んになりました。人が亡くなるとき、極楽浄土に生まれるために「南無阿弥陀仏」と一心に念じ、阿弥陀如来の来迎を願うのが阿弥陀信仰です。日本でも臨終に際して、阿弥陀如来の像と亡くなる人の手を五色の糸で結びます。そうすることにより、阿弥陀如来に迎えに来てもらうのです。古来より、極楽往生を願うための行事として行われてきました。 日本では、飛鳥時代から阿弥陀如来像が作られています。左脇に観音菩薩、右脇に勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像として作られることが多かったようです。国宝に指定されている広隆寺の阿弥陀如来の坐像は平安時代に作られたものとして有名です。 【観世音菩薩】 なるほど仏教百科事典より 観音さまといえば、古くから日本人にとってはとても親しみ深い菩薩です。観音菩薩はサンスクリット語でアヴァローキテーシュヴァラといいます。実はこの名前の訳には二種類あって、観世音菩薩、あるいは観自在菩薩といいます。アヴァローキテーシュヴァラとは、見ることが自在である者という意味になり、ここから三蔵法師として有名な玄奘三蔵は「観自在菩薩」と訳しました。『般若心経』に出てくる観音さまもこの名前です。
一方玄奘以前に鳩摩羅什は、『観音経』(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)で説かれる世界の衆生の声を聞く菩薩という意味で、「観世音菩薩」と訳したといわれています。また「救世菩薩」といった別名で呼ばれることもあります。いずれにせよ、観音菩薩の大きな特色は、世の中の悩み苦しむ衆生を見つけ、その声を聞いて、直ちに救ってくださるということです。 観音菩薩にはいくつかの姿や異名がありますが、それらは観音菩薩の様々な救いの働きを表しています。観音菩薩は相手に応じて様々な姿に形を変え、衆生を救ってくださるのです。『観音経』では、仏や神、少年少女など三十三の姿に変身すると説かれており、西国三十三所観音霊場の数はここに由来しています。 また六道輪廻の思想から、六種類の観音菩薩(六観音)がそれぞれ六道に迷っているものを救うという考えが生まれました。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道に応じた、聖観世音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音(あるいは准胝観音)、如意輪観音を、合わせて六観音といいます。 また浄土教の伝統でも、阿弥陀如来とともにいる菩薩として、勢至菩薩ととも信仰・礼拝の対象となっています。 【勢至菩薩(せいしぼさつ)】 なるほど仏教百科事典より
勢至菩薩は観音菩薩と共に、阿弥陀如来の脇侍(本尊の両脇または周囲に控えている仏像)の内の一尊として、古くから信仰されてきました。そしてこれら阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩は、いわゆる三尊としてセットで信仰されてきました。特に臨終の場において、阿弥陀三尊が迎えに来るという来迎信仰が、広く一般大衆の信仰の支えとなっていたのです。しかし、観音菩薩と比べた場合、観音信仰が大きく普及しているのに対して、勢至菩薩は一般に普及しているとは言えないでしょう。勢至菩薩はこの三尊の中に組み込まれることで知られるようになったというのが実情です。
ただ、観音と勢至を対にして考えると、両者の関係が対照的な事が良く分かります。一般に観音菩薩が慈悲の菩薩で、往々にして女性的な菩薩として描かれるのに対して、勢至菩薩は智慧の菩薩であり、男性的に描かれます。 勢至菩薩は智慧の菩薩であると共に、限りなき仏の力、威神力を兼ね備えているといわれます。お釈迦さまは悟ることにより、深い智慧を得て、同時に悟りから遠ざけるような魔物を追い払う力を得ることになりました。これが勢至菩薩にもぴったりと当て嵌まります。智慧は、仏の力の源なのです。
阿弥陀如来、観音菩薩とセットで語られることから、勢至菩薩は阿弥陀如来を主尊とする浄土教の経典に良く出てきます。特に有名なのは『観無量寿経』です。このお経では、やはり観音菩薩と並んで語られています。中国浄土教の大成者、善導(613〜681)もこれを受けて勢至菩薩への信仰を誓う文を著しています。
日本の浄土教とも非常に関係が深いのはいうまでもありません。特に浄土宗祖である法然(1133〜1212)の幼名が勢至丸であったことは有名です。また、真言宗などの密教経典にも勢至菩薩についての記述が多々見られるようです。
壇上伽藍 大会堂(だいえどう)
壇上伽藍 大会堂(だいえどう)
![]() 観世音菩薩
勢至菩薩(せいしぼさつ)
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