|
〜九度山町ぶらり:真田庵と幸村(和歌山県:2014.5.1.)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関する過去のページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 〜高野山:家康霊屋と秀忠霊屋の違い(2014年5月4日)〜で詳しくご紹介したように、
真田親子、つまり真田幸村とその父真田昌幸(さなだ まさゆき)は、第二次上田合戦で徳川の二代将軍となる徳川秀忠と一戦を交えました。
豊臣家を総大将とする西軍と徳川家康を総大将とする東軍が日本の武家勢力を二分して戦った天下分け目の関ヶ原の戦いに向け、東軍の家康ひきいる本隊は東海道を進み、別働隊として中山道を進んだ秀忠軍は、真田親子との戦いで破れ、関が原の本戦に間に合わなかったのですが、
結果的には関ヶ原では東軍が勝利。合戦に間に合わなかった秀忠に対し父:家康は激怒し、
その原因を作った真田親子は最終的に九度山に幽閉されます。
しかし、真田親子の処遇は当初は女人禁制の高野山(蓮華定院)への配流でした。
ところが、妻を連れていたために女人禁制の高野山には入山できず、結局は九度山での蟄居(ちっきょ)生活を送ることとなったという説や、高野山での生活は寒く大変だったため、麓の九度山町で生活したのではないかと言う説もあるそうです。
そして今回ご紹介するのが真田親子が蟄居(ちっきょ)生活を過ごした真田庵です。
ところが、真田庵は正式な呼称ではありません。正式名は善名称院という真言宗のお寺なのです。
善名称院には、真田親子が蟄居生活を過ごした屋敷があったと伝えられますが、善名称院より西にある旧家萱野家や遍照寺に近い場所にあったという説もあるそうです。
真田庵(善名称院)南面
|
全体表示
[ リスト ]





