カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

全体表示

[ リスト ]

 
 〜九度山町ぶらり:真田家の始まり(真田幸村のルーツ)
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関する過去のページ●    
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
 
注:文中の●は真田●は徳川●は諏訪●は上杉●は海野●は豊臣、●は武田す。 
   
真田家は、信濃の名族として知られる滋野氏(しげのうじ/し信濃国小県郡(ちいさがたぐん)の氏族)の流れをくむと名乗る海野氏(うんのうじ:信濃国小県郡海野荘→現在の長野県東御市本海野)から分かれ出た系譜と言われていますが、清和天皇の子孫を祖とする海野氏の系図は裏付けとなる史料に乏しく、滋野氏とはなんらかのつながりがある一族とも、まったく関係の無い小県郡の開発領主が祖先ではないかとも言われています。
 
真田の姓が歴史上に初めて登場するのは、室町時代後期(=戦国時代初期)の真田頼昌(さなだ よりまさ:1487年 -1523年)の子と名乗る真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して真田の松尾城に居住して以後のことですが、それ以前の系譜については確かな証が得られていません。
というのも日本では、武家政権による全国的な統一支配がなされると、幕府が各大名に対してその祖先を明らかに示すように命じたため、多くの大名が家系図を作成しました。
ところが、この家系図は自己申告的なものですから、誰しも卑しい系譜とは言いません。当然のように、古来より名族とされる血筋に結びつけたものになり、事実とは異なる血筋を示すことも多かったようです。
真田家の場合、その家系図(真田家系図の作成は、関ヶ原の戦いで敗れた真田幸村豊臣方)の子孫ではなく、徳川方につき、江戸時代に信州松代藩主家となった真田信之(さなだ のぶゆき:幸村の兄)を藩祖とする真田家自体が作成したものだからです。
 
真田家の歴史|真田宝物館などの記述によると、真田氏の祖とされる海野氏は東信濃の古くからの豪族であったといわれています。1400年の大塔(おうとう)合戦で、信濃守護の小笠原氏に対抗して戦った有力国人領主の連合には、海野氏などを含む滋野氏一族も加わっており、連合諸将の一つに実田(さねだ・さなだ)氏の名がみられます。このことは事実で、江戸時代に真田家によって作成された疑わしい点のある家系図に頼るよりも、前記の事実をふまえて、室町時代中期頃には後の真田氏に通じる土豪がいたと考えるのが妥当だとする説が有力視されています。
 
真田氏に関するウィキペディアには難解ですが以下のような記述があり、以上のことはこれを参考にしました。
『大塔物語』には、室町時代の1400年に信濃守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将の一人で、滋野三家の一つ禰津氏(根津氏)の禰津遠光の配下に「実田」の名が見られ、これが「真田」の当て字とする説が現実的である。
「実田」「サナダ」と読むとすれば真田氏の初見ということになります。旧真田町(上田市)に真田・横尾・曲尾などの地名・集落があったことなどから、一つの集落を領する程度の小土豪だったと推定できる。
また吉沢好謙が1744年に著した『信陽雑志』によれば1440年の結城合戦に参陣した禰津遠光の配下には真田源太・源五・源六の名が見られる。これらのことから、おそらく真田氏は名族滋野三家(海野・望月・祢津)である根津氏の支流だったであろうと考えられている
はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷真田幸隆と名乗る在地の小豪族がいたということである。
高白斎(こうはくさい、駒井政武)が記した『高白斎記』(別称『甲陽日記』)の天文18年(1549年)3月14日の条に「七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、真田渡ス、依田新左衛門請取」と出ている。ここに出てくる真田氏幸隆である。
 また、江戸時代に書かれた歴史書である『真武内伝』によれば、
1541(天文10)年の武田・村上・諏訪三氏の連合軍と、東信の名族海野(うんの)氏との対戦の時、海野勢にあったのが真田幸隆(幸綱とも)とされています。この戦いは海野勢の敗北となり、幸隆は上州へ逃れます。
しかし、遅くとも1549(天文18)年頃までには武田信玄に仕えることとなり、「信州先方(さきがた)衆」として武田勢の先兵または参謀として活躍します。特に東北信地方の大半が武田氏の手中に落ちたのは、幸隆に負う所が大きかったと言われています。
このように真田家武田家に対して多大な貢献をしており、両家の間には硬い結束があると現代の人なら思うことでしょう。しかし実際には武田氏海野氏武田信玄父:信虎が当主の頃には敵対関係にあったことから海野氏の出身である真田幸隆武田家と戦っています。
海野平の戦いの記述によると、
戦国時代の(1541年)に信濃国小県郡で起きた海野平の戦いでは、甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が県郡へ侵攻し、小県を領土とする海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)が戦いました。
村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では海野氏を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していたのですが、上杉氏と結んだ海野は、武田氏からも村上氏からも共通の敵とみなされ、翌年の天文10年5月、佐久郡をほぼ制圧した武田信虎は、同盟者の諏訪頼重や前年まで死闘を繰り広げていた村上義清と手を組んで小県郡へ侵攻します。
既に村上氏との戦いで大幅に勢力を縮小していた海野氏には、単独で抵抗する力は残されておらず、海野棟綱関東管領上杉憲政(うえすぎ のりまさ:養子として向かえた男児は、後に上杉謙信となる)に援軍を求めますが、棟綱の子の海野幸義村上氏との神川の戦いで戦死し、棟綱も代々支配した地を追われることとなります。
おりしも同年6月には、武田家に異変がおきます。
武田家 嫡男(ちゃくなん)の武田晴信(信玄)のクーデターにより父である武田信虎は甲斐から追放され当主が交代したことで武田軍の進軍は弱まり、更に7月になってようやく海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、佐久郡に出兵したことで、佐久郡の大井氏、平賀氏、内山氏、志賀氏らは戦わずに降伏しています。定かではありませんが、この上杉軍には海野棟綱真田幸隆らも参陣していた可能性もあります。
この海野平の戦いの中で、海野家の嫡男海野幸義村上軍との神川の戦いで討ち死にし、当主海野棟綱は上州の上杉憲政の元に逃れます。これ以後海野氏上杉家を頼り、海野氏の出身の真田家も当然上杉家を頼りに思ったはずです。
ところが、上杉軍の長野業政は諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らずに帰還してしまいました。
まり、上杉軍は、海野氏真田氏の領土に侵入した武田軍とは戦わずに引き上げてしまったのです。このことが、真田幸隆上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされています。
この海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)の結果、 武田氏の勢力は大きく後退し、佐久郡は上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになる。
武田信虎体制を継承した晴信は天文11年から信濃侵攻を再開し、諏訪氏の勢力を併呑すると佐久郡を奪い返し、天文17には小県郡にまで侵攻し、村上氏と上田原の戦い砥石崩れなど直接戦うことになる。
海野氏の当主の棟綱は勢力を回復できぬまま歴史から姿を消すが、共に上州に逃れた一族の中には、真田幸隆のように後に武田氏に仕えて所領を奪還した者もいる。
 
話を戻します。
真田家二代目の昌幸(まさゆき)は、初代幸隆(ゆきたか)の三男で、
人質として武田信玄のもとにおくられていました。家督は長男信綱が継ぎ、昌幸武田信玄の旗本 武藤家の養子として武田二十四将のうちの武藤喜兵衛となっていたのです。
ところが長男の信綱・次男昌輝が長篠の合戦であいついで亡くなったことで、並外れて知略に秀でた昌幸真田家の家督
をつぎ、結果的には、三代幸村、そして徳川の世に存続させた信之へとつながる真田家が存続しえたと言えます。



真田家の祖 真田 頼昌(さなだ よりまさ:1487年 - 1523年 画像なし
頼昌は、一度は領地を失いながら、武田家の家臣として後の真田家隆盛の礎を築いた真田弾正忠幸綱(幸隆)の父とされ、官途名は右馬介、号は道端とされるが、真田氏の系譜は諸説あり、頼昌に関しても不明な点が多い。
幸隆の実弟矢沢頼綱の実父である事は資料等から確実とされ、真田姓ではなく「矢沢頼昌」とする説がある。だが真田幸隆や末弟常田伊予守隆永との繋がりを裏付ける資料は無く、「矢沢頼綱の父」から推測して他の兄弟とも親子とされているに過ぎない。更に頼昌には綱吉(綱義)という嫡男がいたとする説が有力視されているが、綱吉真田幸隆の従兄弟とされる海野左馬允である可能性が高く、後の真田家との関係は未だ謎が多い。
また、妻は海野棟綱の娘とされるが、息子とされる真田幸隆にも海野棟綱の娘を妻とした説(両方が事実なら、頼昌幸隆は義兄弟)があるなど、これもはっきりとはしていない。
 
http://www.sanadahoumotsukan.com/sanada/images/p01_yukitaka.jpg
初代当主 真田幸隆(ゆきたか:1513−1574)
 江戸時代に書かれた系譜によれば、幸隆は1513(永正10)年に海野氏の一族として生まれました。1541(天文10)年海野平(うんのだいら)において海野一族の一人として武田信玄との戦いに参加し、これに敗れると、真田の地から上野国(現・群馬県)へ亡命したといわれています。遅くとも1549(天文18)年頃までには武田信玄の家臣となっています幸隆信玄に重用され、「信州先方(さきがた)衆」の旗頭として、東北信地方の上田原・戸石・塩田城・川中島と続く合戦に、常に武田勢の第一線で参戦したといわれています。川中島の戦いの後、さらに北上州へも転戦し、諸城を攻略し吾妻郡の支配をまかされることとなります。
 幸隆は、武田信玄が亡くなった翌年、1574(天正2)年5月、62歳で世を去りました。
 
二代目当主 真田昌幸(まさゆき:1547−1611)
 1547(天文16)年、真田幸隆の三男として生まれました。若い時から、武田信玄の側近として仕え、武田家ゆかりの武藤姓を与えられ、武藤喜兵衛と名乗っていました。1575(天正3)年長篠の戦いで、信綱・昌輝2人の兄が討死したため、真田家を相続しました。1580(天正8)年には上野国沼田城を攻略し、北上州一帯をその勢力下におくようになりました。1582(天正10)年3月、武田氏が滅亡すると、その旧領は織田信長の支配となります。しかし、同年6月信長が本能寺の変により倒れたことから、信濃は徳川・上杉北条等諸大名の争奪の場となりました。この間昌幸はよく真田家を守り、上田を中心に小県地方を統一し、1583(天正11)年には上田城を築城しました。その後、神川合戦で徳川勢を敗退させ1585(天正13)年豊臣秀吉に接近します。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いには、次男信繁(幸村)と共に豊臣方に属し、上田城にあって徳川秀忠軍の西上を阻止しています。そのため秀忠の軍は関ヶ原の戦いに間にあいませんでした。
 昌幸父子の奮闘にもかかわらず、関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に終わりました。長男・信之徳川方に属した功と助命嘆願により、昌幸は高野山麓に配流され、所領であった上田領は信之に与えられました。二度も徳川の大軍を破った智勇の将は、1611(慶長16)年6月4日、高野山麓の九度山で65歳の生涯を閉じました。
 
三代目当主 真田信繁(のぶしげ=幸村)(1567〜1615)
 信繁昌幸の次男で、1567(永禄10)年に生まれ、幼名を御弁丸また源次郎といいました。1585(天正13)年上杉景勝の人質となって、越後国春日山城に入り、同15年には豊臣秀吉の人質となって大坂城に赴(おもむ)いたとされています。
 関ヶ原の戦い後、父・昌幸とともに高野山麓に流されます。大坂の陣の際には高野山を出て、豊臣方の武将として奮戦しますが、1615(慶長20)年5月7日、大坂夏の陣にて討死しました。
 幸村という名は『難波戦記』など、後世の軍記物や講談本のみに書かれているもので、信繁死後の架空の名称と考えられています。また幸村の家臣であり「真田十勇士」と呼ばれる海野六郎(うんのろくろう)、根津甚八(ねずじんぱち)、穴山小助(あなやまこすけ)、由利鎌之助(ゆりかまのすけ)、三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)、三好為三(いさ)入道,猿飛佐助(さるとびさすけ)、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)、筧十蔵(かけいじゅうぞう)、望月六郎(もちづきろくろう)などはすべて江戸時代以降の読物の中で創作され、明治時代に入ってから『立川文庫』などで広く知られるようになった、架空の人物です。

長野県の地図
左側の地図の赤い部分が現在の上田市です。
右側の地図の青色の部分は、真田家が発祥した信濃国 小県郡(ちいさがたぐん)です。
 
 
 
イメージ 1
牡丹の花が咲く真田庵(2014年5月1日撮影)
北門が画面中央の奥に見えます。
 
PVアクセスランキング にほんブログ村

.
上から目線
上から目線
非公開 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

標準グループ

登録されていません

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

ブログバナー

友だち(2)
  • 湖池健彦 Essay
  • 土佐文旦
友だち一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事