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〜九度山町ぶらり:真田家の変遷(武田家臣時代から大名になるまで)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
真田家は、信濃の小国であったため、いかに戦術にたけていても、一国では周辺の敵国に対抗できず、大国の家臣として生き残る道を選びます。
ところが、戦国の世の流れの中で、頼りとする国がことごとく滅びの末路をたどり、その度に新たな主従関係を結んでゆきました。
前回のページ〜九度山町ぶらり:真田家の始まり(真田幸村のルーツ)〜では、
①海野氏(真田氏は海野氏の別れ)→②上杉氏(まず海野氏が上杉氏を頼りにしたことで真田家も従属、海野氏は滅亡)→③武田氏(頼りにした上杉軍が真田の領地を救わなかった)
ここまでご紹介しました。
真田昌幸(まさゆき)が武田家家臣時代には、
海野平の戦いで上杉軍が真田家の領地に入ることなく引き上げたため、上杉家の支援による旧領地の奪回がかなわないことを悟ると、これまで敵対していた武田晴信(信玄)に近づきます。
信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)にとって、信濃の出である真田家が見方になることは、地の利、戦術面でも大きな戦力になることは、敵対していた頃より骨身に染みて分かっていたはずです。
一方の真田家にとっては、武田家に仕えることで旧領を回復、続いて縁故の滋野氏の支族が多い信濃や上野方面で活躍し、次第に真田氏の勢力基盤を築いていったのです。正にギブ&テイクですね。
この時期、真田の本拠地は真田本城でした。
武田家中においては、信濃先方衆の有力武将として、幸隆のみならず嫡男信綱(のぶつな)、次男昌輝(まさてる)も活躍し、信綱は家老になり、昌輝は信玄直属の百足衆を率いた時には、「兵部(昌輝)は我が両目なり!」と信玄に言わしめるほどだったそうです。
また、三男昌幸(まさゆき)は武藤家を、四男信尹(のぶただ)は加津野家をそれぞれ継いでおり、真田一族は武田家において重用されていたことがうかがえます。
なお、武田24将に、真田信綱、昌輝(幸隆や昌幸が入ることもある)が入っており、親子兄弟からこれほど選ばれている例は他家には見あたらないとか。
史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた1567年嫡男信綱が30歳の頃までには真田家の家督を継いだと考えられています。
甲斐の武田氏は、川中島の戦いを契機に上杉氏との抗争が収束しますが、駿河では三河の松平元康(徳川家康)が独立し、西方では三河の織田信長が台頭します。当初は武田・織田両氏は同盟関係にあったのですが、次第に関係が悪化し、最終的には手切りとなり、武田家は西へと進軍を開始しますが、信玄の急死により撤収されます。
この西上作戦の際には、昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされています。(この頃はまだ昌幸と家康は敵対関係にないのですが、後に宿敵同士となります。)
更に武田家当主が勝頼の頃には、東海方面で徳川家康が反攻を強めます。
そして1575年には織田・徳川連合軍と武田勝頼の間で長篠の戦いが発生し、真田家当主信綱と次男昌輝が討死。武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、窮地に立たされた武田家では動揺が走ります。
この時、2人の兄が亡くなったことで養子に出て武藤喜兵衛を名乗っていた三男・昌幸が真田姓に復帰して家督を相続します。
織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦いや西の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったのですが、信長の同盟者である三河の徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされ、織田との和睦(わぼく)にも失敗し、やがて織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われ、高天神城の落城に際し後詰を送らなかった(送れなかった)事で、武田氏は致命的に信望を失い、やがて武田家は滅亡します。
昌幸は信玄の近習を勤めたこともあり、武田氏滅亡時には武田勝頼に真田の影響下にある吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したと伝えられます。
昌幸は武田氏が滅んだ後には、織田信長に恭順しますが、本能寺の変(1582年6月)で信長が倒れると、昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら混乱する信濃にあって主家を転々と変え、真田家の勢力維持にほん送し、本能寺の変の一ヵ月後の7月には、北条氏に対して臣従の意を示します。
徳川氏と北条氏が甲信を巡って対陣した天正壬午の乱(1582年6月:本能寺の変によって空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った)の和議では、上野を北条領とし、真田氏支配の沼田城周辺も北条に割譲するが、徳川はその代替地を用意することが定められました。しかし昌幸はこれを拒否したため徳川軍7千の攻撃を受けますが、昌幸は2千余人の城兵で上田城を守りきりました。
この第一次上田合戦と呼ばれる戦いによって、ようやく真田氏は独立した大名として認められることになります。
真田庵裏門
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