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〜九度山町ぶらり:二代目当主となるはずだった真田信綱〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関する過去のページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 注:文中の●は真田、●は徳川、●は織田、●は上杉、●は北条、●は豊臣、●は武田です。
真田幸村の父(昌幸:まさゆき)には、他に3人の男兄弟(二人の兄と一人の弟)がいました。
これまでのページでご紹介しているように、昌幸は三男として生まれ、他家で家督を継いでいましたが、二人の兄が戦死したために真田家に戻り、真田家二代当主となります。
今回は昌幸の兄弟をご紹介します。
【真田信綱(さなだのぶつな)】
信綱は真田家の嫡男でした。
武田家の武田家の騎馬200騎持の侍大将として、武田信玄、勝頼の2代に仕え、武田二十四将にも数えられました。
確実な史料としては、真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸隆と連名の連署(れんしょ:鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上 の「副執権」。)として武田家に仕えましたが、初陣や出仕時期など前半生は父・幸隆と生涯が重なるため信綱単独で記された軍功などが見当たらず、不明です。
ただ、父と連署している事から、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたと考えられ、西上野侵攻作戦が行われていた1567年までには家督を相続していたと考えられています。
『甲陽軍鑑』には、1561年の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたそうです。
史料の検討から戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、1568年には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、1569年の三増峠の戦いは昌輝などと共に殿軍(大部隊の最後尾で、敵襲に備える 部隊。)を務めて戦功を挙げています。
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍しているます。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代(数代にわたり主家に仕え、家政に も関わってきた家臣に準じる地位。)としての待遇を得ていたようです。1572年の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。
1574年5月に父である二代目当主の幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継ぎました。
その翌年の1575年におきた長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀(出陣した際の儀礼用の刀)を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫りますが、鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死します。
享年は39歳でした。。
真田家の家督は武田勝頼の命令により信綱の幼児らに受け継がれる事は認められず、結果として武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承することとなります。
信綱を討ったのは徳川方の渡辺政綱だと言われていますが、、実際には織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ではないかとする説もあります。
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったとされ、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に今も収蔵されています。
なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられました。
なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がありますが、これは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒の地だからです。
信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたようです。信綱の死後、家督を継いだ昌幸は、わが子の次男:真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという期待を込めてであったといわれます。
初陣である信濃小岩岳城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であり、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されています。
真田庵境内
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