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〜九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(豊臣の時代以前)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
真田伝説はここから始まる→幽閉の地 真田庵
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
知略・謀略・策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
注:文中の●は真田、●は徳川、●は織田、●は上杉、●は北条、●は豊臣、●は武田です。 ここまでご紹介したように真田家二代目当主となった真田昌幸(さなだ まさゆき)の兄弟は、4人とも優れた武将だったようですね。
ただし、それぞれの兄弟には異なった個性があるようです。勇猛でありながら常に父に付き従った長兄の信綱、個の力で戦局を変えうる武の力と知力を持った次男昌輝、知略に長け、一見変人にも思えるほどの気骨を持つ反面、兄のために奔走した四男信尹、
はてさて今回ご紹介する三男でありながら当主となった昌幸とは、いかなる武将だったのでしょうか。今よりご一緒に探訪してみましょう。
まずは使えた主君を比較してみましょう。
長兄信綱と次男昌輝は、武田信玄→武田勝頼
三男昌幸は、武田信玄→武田勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→徳川秀頼
四男信尹は、武田信玄→武田勝頼→北条氏直→徳川家康→蒲生氏郷→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 彼らが生きた戦国の世は、年によって勢力図が大きく変わった時代です。
長兄信綱(1537年生まれ)と三男昌幸や四男信尹(1547年生まれ)とでは、10歳の年の差があるので、いちがいには言えませんが、三男昌幸が最も多く主君を換えていて、このことだけでも昌幸の特徴が現れているように思えます。
昌幸は、
1547年、真田幸隆(幸綱)の3男として生まれ、後世に作られた系図注記や編纂書では1545年生まれとされますが、信頼性に欠けるとか。
信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自で、武田信玄の下で活躍します。武田信玄時代の甲斐武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立し後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において近世大名化した。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退して徳川家康を大いに恐れさせた事で知られ、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像が付加され、現在では講談や小説などで大いに知られます。武田信玄の時代
7歳にして甲斐武田家への人質として甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わります。『甲陽軍鑑』に拠れば、信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、寵愛したと伝えられ、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事もあります。なお、この時の奥近習衆は『軍鑑』によれば昌幸の他に5名が挙げられています。
その後永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。
初陣は『甲陽軍鑑』に拠れば1561年9月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったとされています。
しかし、この時昌幸は元服前後の15歳であったこともあり、実際に出陣したかどうかは定かではありません。
1567年11月(昌幸21歳)に武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には宿老・重臣クラスの武将と共に信玄の使者として勝頼の下に出向いていたことから、この頃の昌幸は武藤家を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られているようです。
1569年10月6日、北条氏康・氏政・氏照との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務め、北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされています。1572年10月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加していますが、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされています。昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」を率いて出陣したとされている。これも『軍鑑』のみの記述です。
当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではありませんが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されています。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている。なお、信玄の晩年には武田家の奉行人に列されており、竜朱印状(以下に画像と説明あり)の奉者として事実確認ができています。
武田勝頼の時代
1573年4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えます。
1574年には父・真田幸隆が死去します。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいたが、1575年5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死し、昌幸も長篠合戦には参加していましですが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れ、昌幸は真田氏に復して家督を相続します。
なお、家督相続は真田領のみで、武藤家の家督は分家筋が継承したと考えられています。
長篠合戦以後、武田家の勢力が三河・遠江から大きく後退。
そのため昌幸の岳父であった尾藤頼忠は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となっていた兄を頼って秀吉の弟・秀長の家臣となってしまいます。
それでも昌幸は家督相続後、真田領の所領統治のために在国し、あるいは甲府の勝頼のもとへの出仕(しゅっし)も多かったため、本領と甲斐を往復する事を繰り返す中、1578年3月、越後の上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立します。
この時の上杉景勝との交渉では昌幸は蚊帳(かや)の外に置かれますが、この同盟成立により、翌年の9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領の沼田領へ侵攻し、名胡桃城と小川城を相手が降参するようにしむけて手に入れた上で、この2城を拠点に沼田城を攻撃するも北条方に援軍が駆け付けたために一旦は撤退しますが、2年後には沼田城を開城させ、同時に猿ヶ京城も攻め落としました。この後にも旧田沼城主による奪還の動きもありましたが、昌幸の計略による不意打ちによって田沼氏は滅亡します。
これらの功により同年に喜兵衛尉を改め、従五位下・安房守に任ぜられ、蚊帳の外に置かれた立場を一転させますが、武田家内の不協和音は続きます。
1582年3月、ついに織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が始まり、(江戸期編纂の文書に拠れば)昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていましたが、勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、信茂の裏切りによって最期を遂げることになったと言われます。
このように昌幸には武田家への忠誠を示す逸話が伝えられる反面、武田滅亡以前から北条氏直との接触を示す史料もあり、強かさがうかがえます。
武田家滅亡のあと 武田信玄から吸収した外交と戦略、父・真田幸隆から受け継いだ神出鬼没の用兵戦略、加えて時代の流れと人の器量を見抜くことに長けた昌幸は、武田氏滅亡後、北条氏の誘いに応じることなく、すぐさま織田信長に馬を贈り、織田信長の家臣となって本領を安堵され、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となります。これによって沼田城には滝川益重が入ります。
しかし、織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の1582年6月2日に本能寺の変で信長はあっけなく倒れます。この展開はさすがの昌幸にも読めなかったわけですね。
この事変で旧武田領は騒然たる状態となり、信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走帰還する中、甲斐国主の河尻秀隆は甲斐国に留まりますが、領内の一揆に抗し切れず殺害されます。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らにより熾烈な争奪戦が繰り広げられました。これを天正壬午の乱と言います。
もちろん昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策します。
これまで織田信長に潜伏していた旧武田家臣は、信長の死によって自由の身となると、小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら今後の身の振り方を話し合います。
昌幸はこの会合には参加せず、出席した家臣の一部を調略して、昌幸を総大将に仰ぐ事を表明させると他もこれに同調します。昌幸は彼らの意向を快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結びます。その他にも武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆家を自身の家臣にするため、寺領を寄進し、吾妻郡の地侍や豪族には金銭を与え、山伏として諸国を修行していた湯本三郎右衛門には所領を与えるなど、吾妻郡有力者の人心の掌握に務めたのです。
更に今度は北条氏直が上野に侵攻し、織田方だった滝川一益を破ります。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた上で、昌幸は滝川一益がいなくなり無主となった上野に、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回し、嫡男の信之を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めました。
更に更に同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入ります。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従しますが、7月9日には北条氏直に伏します。7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を後方の守備に残しています。一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国しました。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して今度は徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切るのです。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択しますが、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に再び臣従します。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴方への参加に他ならない。
1583年、昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城と、その周囲に当時流行の城下町も築きました。この松尾城こそ、後に真田の居城として現在も全国に知られる上田城です。
また、同時期には徳川家の家臣として北条氏と通じていた有力武将を調略して丸子氏を滅ぼしていますが、腹の内では昌幸は家康との和睦条件の食い違いから独立への道を探っていたとされます。
1584年3月に小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉陣営と織田信雄をようする徳川家康陣営の間で行われた戦い。)が起こり、家康は主力を率いて尾張に向かい、昌幸は越後の上杉景勝をけん制するために信濃に残留していました。昌幸は家康の注意がそれたのを見て、知行宛行状の乱発や謀略を用いて沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握します。
家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵します。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、1585年4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めます。しかし昌幸は相応の替地があてがわれない限りは引き渡しに応じないと拒否。家康はやむなく浜松城に引き返します。この時はまだ徳川家の家臣だったにもかかわらず。
こうして昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属します。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させますが、昌幸はわずか2,000の兵力で大勝をおさめ(第一次上田合戦)、信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになります。
【北条氏について】
戦国時代の伊勢新九郎長氏を初代とする小田原北条氏五代は、鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」もしくは「小田原北条」と呼ぶそうです。
執権北条氏と後北条氏の関係について・・・ - Yahoo!知恵袋には、以下のようなアンサーが紹介されています。
「後北條氏は鎌倉幕府執権の北條氏とは血縁的にまったくつながりはありません。初代早雲が「北條」を名乗ったかどうかは疑問があります。しかし二代目の氏綱は、関東一円の支配のためには、「北條」の名を名乗ったほうが歴史的経緯から有利と考え、あえて「北條」を名乗ることにしたのです。家紋も同じ三つ鱗にしました。関東の武将に、かつて先祖が執権北條氏に従っていた過去を思い出させ、従わせ易くするための改名でしょう。」
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