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〜九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(豊臣政権時代)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
知略・謀略・策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて
真田幸村登場、元服するや人質に→豊臣の大名へ
注:文中の●は真田、●は徳川、●は織田、●は上杉、●は北条、●は豊臣、●は武田です。
前々回ご紹介したように、
武田家が滅ぶと、空白地帯となった旧武田領をめぐって周辺の有力大名が、争奪戦を繰り広げるというドサクサに紛れ、ある時は密かに、ある時は武力をもって、昌幸はありとあらゆる手段を用いて沼田・吾妻・小県の信濃方面を完全に真田領として掌握してしまいます。
おりしも、対立していた家康方と羽柴方(後の豊臣方)との間に和議が成立し、家康はその和議に際して連合を組んでいた北条氏に対する約束事として真田の支配下にある沼田領を北条氏に引き渡すように昌幸に求めたにもかかわらず、昌幸がこれを拒否し、徳川家との決別を決意し、独立大名としての歩みを始めます。
命令を聞かなかったことで家康が報復行動に出ると踏んだ昌幸は、1584年7月に次男の信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に従属しました。
その後天下は豊臣家が掌握し、豊臣政権の時代となります。
ここに来てやっと、戦国のヒーロー:真田幸村の名が歴史上に登場するのです。
幸村の生誕年は1567年、一説には1570年とも言われますから、この時幸村は14〜17歳ということになります。
豊臣政権の時代 1585年冬、次男:幸村(19〜22歳)は幸村が上杉景勝の人質から、天下人となった豊臣秀吉の人質として大坂に出仕(しゅっし)し、昌幸は豊臣家に臣従します。
1586年には佐久(長野県東信地方)に侵攻。5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されますが撃退し、7月には家康が昌幸征伐のために甲府に出陣しますが、8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めは中止されます。
とことがその代わりに、秀吉に昌幸は家康の与力大名になることを命じられます。
それまで対立していたいけ好かない家康の元での勤めは、針のむしろだったにちがいありません。
それでも1587年3月には昌幸は駿府で家康と会見し、その後大坂で秀吉と謁見し、晴れて豊臣家臣となります。
1589年には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ます。この頃、昌幸が在京していたことを良い事に、11月に北条氏の家臣が名胡桃城を攻め、これが惣無事令(そうぶじれい:豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)違反とみなされます。
この際、昌幸から任命された名胡桃城の城代は昌幸に対して責任を取る形で自害します。
対して北条方は、禁を犯して城を攻めたとう討伐の大義名分を秀吉に与えることとなり、
1590年、昌幸は秀吉の命により、上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に後北条領の上野に攻め入り、小田原征伐が行われます。
この小田原征伐の中の逸話には、昌幸を含む北陸軍は関東北部の北条属城を落としながら南下し石田三成の指揮下で忍城攻めに加わり、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫(忍城城主・成田氏長の長女:の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている)らに撃退されたとされます。
余談ですが、この甲斐姫、勇猛にして美貌も兼ね備えていたらしく、後に秀吉が気に入り、側室にしています。
こうして北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には昌幸を含む豊臣系大名が配置されて家康を監視します。この時、昌幸は秀吉から旧領を安堵されます。
なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領とは別として独立します。
1592年、秀吉の朝鮮出兵に際しては、昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に大坂に戻る事が出来ました。この九州に詰めていた1年半の間、昌幸の文書は送られず、上田統治は家臣に任せていた可能性が高いそうです。
大坂に戻った後、朝鮮へ出しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられます。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担いましたが、この間に秀吉に豊臣秀頼という息子が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっています。昌幸家臣の人数負担270人(知行高5分の1)を数えていますが、扶持米は豊臣家から支給されたとか。
また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられています。
この軍役や普請の負担の功労により、秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓が与えられ、同時に幸村にも従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられました。なお、幸村はこの頃になると昌幸の後継者としての地位が固まって行きます。
ちなみに昌幸には、「羽柴昌幸」の文書が残っています。時期は不明ですが、おそらく、秀吉から羽柴の名字を許されたのでしょう。
真田祭りの真田武者
一番前の方は真田昌幸、真ん中の方が真田幸村、その後に真田大助にふんした方が並ん でいます。
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