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〜九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(関ヶ原の戦いに向けて)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
知略・謀略・策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて
真田幸村登場、元服するや人質に→豊臣の大名へ
昌幸・幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
注:文中の●は真田、●は徳川、●は織田、●は上杉、●は豊臣、●は武田です。
前回ご紹介したように、晴れて豊臣方の大名になった昌幸でしたが、秀吉は晩年になって朝鮮出兵を断行します。このことが豊臣政権の死期を早めることとなりますが、昌幸の二人の子である信幸と信繁(幸村)も秀吉より官位を得て表舞台に登場します。
関ヶ原の戦いに向けて
1598年に秀吉が死去すると、秀吉死後の豊臣政権において五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強めはじめます。家康は真田家にとって宿敵とも言える存在ですが、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国元(くにもと)にいる信幸に向けて送っており、表向きは家康に従っていたことがうかがえます。
ところが、秀吉が存命中に五大老にまで上り詰めた上杉景勝にとっては、家康の思い上がった命令など聞くに値しないものだったのでしょう。家康の出仕命令にも応じませんでした。
1600年7月、家康は上杉討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っています。
すると、家康が留守中であることを好機と見た五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康 弾劾(不正や罪過をあばき,責任を追及する)の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始め、昌幸もこの書状を下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取ります。
この時昌幸は信幸・信繁と今後どう身を処するか 会議を開き、信幸は正室が徳川家の家臣である本多忠勝の娘である事を理由に、また昌幸も真田家存続のためにと親子の訣別を決し、昌幸は次男・信繁(幸村)と共に西軍に与(くみ)し、上田城へ引き返しました。
本田忠勝の娘と信幸の縁組は、家康が真田昌幸を脅威と認め、当然家康が糸を引き、重鎮の家臣との姻戚関係を結ぶことでその牙に縛りを掛けたものでしょう。
ではなぜ昌幸は石田三成に従ったのでしょう?
昌幸にとって家康が宿敵であることもその理由の一つでしょうが、それだけではありません。
三成の正室は、宇多(もしくは宇田)頼忠の娘である皎月院(こうげついん)です。
皎月院(こうげついん)には宇田頼次という兄弟がいて、真田昌幸の5女を妻にしています。
従って昌幸は宇田氏を通じて三成と姻戚関係にあったからだと言われます。
そして昌幸は上田に帰還する途上で信幸との決別を行動で示します。
なんと信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた信幸の妻:小松姫に「孫の顔が見たい」として開門を請いました。しかし、小松姫は昌幸の思惑を見抜いて丁重に拒絶します。昌幸は「さすが本多忠勝の娘じゃ」と笑って上田に引き返したと『滋野世記』などの後世の編纂書で伝えられています。
上田城に戻った昌幸は7月から8月にかけて、豊臣系大名(西軍)と書状での交信を繰り返します。ただ8月10日の書状を最後に 交信は確認されておらず、昌幸も大坂の西軍も徳川方との戦闘準備に追われていたものと推測されています。
そして家康の本軍は江戸を発して東海道を西に下り、家康の命を受けた3男・徳川秀忠の別働隊はおよそ3万8,000の大軍を率いて中山道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始、〜高野山:家康霊屋と秀忠霊屋の違い(2014年5月4日)〜でご紹介した第二次上田合戦へと発展します。
結局秀忠は真田親子に敗北し、関ヶ原の本戦に間に合わなかったのですが、
その後、本戦での石田三成敗戦の報が届いても真田親子はすぐには降伏せず、海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁(幸村)を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えています。
しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。
2014年5月5日 真田祭りの幸村
2014年5月5日 真田祭りの昌幸と女幸村 |
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