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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜九度山町ぶらり:秀吉も真田家を滅ぼしたかった
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関するページ●       
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
知略・謀略・策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて 
真田幸村登場、元服するや人質に→豊臣の大名へ
昌幸・幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田家を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
 
注:文中の●は真田●は徳川●は織田●は上杉●は北条●は豊臣、●は武田です。
      
 
今回は、『秀吉も真田家を滅ぼしたかった』というとてもショッキングな題名です。
「マジで?」と思った方も多いでしょうね。実は私もそう思った一人なのです。
この題名が本当か嘘か、順を追ってご紹介します。
 
前回ご紹介したように、1589年には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ます。この頃、昌幸は京に赴任していました。これを良い事に、11月北条氏の家臣名胡桃城真田昌幸沼田城の支城)を攻め、これが惣無事令(そうぶじれい:豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)違反とみなされ、秀吉より小田原征伐の命が下ります。
 
一方真田家は初代当主の時代当主やその息子たちが、武田家の主だった役職を勤めていました。
ところが、 織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼が戦った長篠の戦い以後、武田家は衰退の一途をたどり、やがて滅亡。真田家はその根底を失います。
そしてここから、真田家の二代当主となった真田昌幸の長く険しい一族の生き残りを掛けた生涯が始まるのです。
                         ■改めて真田家の主君の変遷とその状況を紹介■
 (主君)              (真田家の状況)
武田信玄  真田一族が主要な役職を担う
武田勝頼  長篠の戦いで、昌幸の二人の兄が戦死し昌幸が当主となる
織田信長  武田家滅亡により昌幸信長に馬を贈り臣従する。
北条氏直  上杉・北条がほぼ同時期に真田領内へ向けて進軍し、一時上杉景勝に臣従の後、
         条氏 に伏す。
徳川家康  昌幸の老母を含まていたとされる佐久・小県郡の人質が家康に引き渡されたため、先に
         徳川の家臣になっていた元武田家臣の依田信蕃(よだ のぶしげ)を介して家康に臣従。
上杉景勝  信繁(真田幸村)を人質に出す。
豊臣秀吉  信繁(真田幸村)上杉家から出て豊臣家人質となる。
豊臣秀頼  秀吉が死去したため、秀頼豊臣の二代将軍となり、昌幸・信繁(真田幸村)親子 
         は、徳川秀忠と戦うが、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利したため、九度山に幽閉される。
 
 織田信長徳川家康の連合軍により武田家は滅亡し、真田家は主君を失います。その後織田信長が本能寺の変に倒れ、旧武田領は騒然となり、旧武田領の統治の任を受けて赴任していた織田家臣たちは、相次いで美濃方面に逃走帰還します。
そんな天正壬午の乱の混乱の中、条軍が甲斐の上野より進軍し、時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、長沼城に入ります。これを受けて昌幸一時上杉景勝に臣従しますが、直ちに条氏 に伏します。結局真田領内への上杉軍の侵攻はなくその後安堵して真田領から甲斐の沼田城に戻った昌幸は、突如北条氏を裏切り、今度は徳川家康方となります。
これが田家が滅んだ以後の真田の動きです。
 
ところでとりあえず天下を統一した豊臣秀吉には敵がいなかったかと言うとそうではありません。
東の脅威として徳川家康北条家とは敵対関係にあり、更に九州には未だ秀吉の威勢は届いていませんでした。
秀吉は、まず家康およびその同盟者である北条家を攻める予定だったのですが、1585年11月29日、関西、中部地方を中心に現在の神戸淡路大震災を上回る大地震が発生し、東国遠征の際には秀吉軍の先陣となるはずの関西、中部を領する大名たちの領国に甚大な被害を与えたました。
そこでやむなく先に九州遠征をおこなうことにした。それにはやはり先ず東国の脅威をとりのぞいておく必要がありました。「家康を成敗する」といきまいていた秀吉が、その2カ月後に急遽、家康の懐柔に動くのは、そのためだった。家康との懐柔(和睦)には、1586年1月27日にまずは織田信雄を三河に派遣して家康をとりこんだうえで、家康を介して北条家をも抑え込むという意図があった。
という仮説を紹介しています。
果たしてこれは的を射た仮説なのでしょうか?
関西、中部地方の大名に甚大な被害が有ったのなら、当然大坂にもそれ相応の被害があったはずで、東方への遠征を九州への遠征に変更する以前に、遠征そのもをしばらく取り止めたのでは?と私には思えます。恐らく九州地方の被害は少なかったでしょうから。

史実では、両者の和睦に際し、秀吉家康との友好の証しとして妹の旭姫を家康の嫁に差し出すという破格の条件をつけ、
更に家康の上洛を実現させるために、今度は実母をも家康のもとに人質として差し出すということまでやってのけ、家康の大坂城登城をもって、家康秀吉への従属が決定づけられることとなります。
ではなぜ、とつぜん秀吉家康を懐柔しだしたのか?その理由が天正の大地震だというのです。
 
そこで、史書では触れられない、真田昌幸が直面した窮地の記述は更に続きます。
話は更に大震災からおよそ半年ほど前にさかのぼります。
この頃、真田昌幸は、それまで従属していた徳川家康から離れ、上杉景勝の傘下に入ります。
どうして彼が家康のもとを去ったかというと、家康昌幸の領していた上野の地を「北条家に譲れ」と迫ったからです。家康がそんなことを彼に強要したのは、天正10年(1582)に北条家徳川家が和睦をした際に、「上野は北条家のものとする」という取り決めを両家が交わしていたからですが、昌幸は、これを拒否します。
そして、これを理由に家康は8月には真田家を攻撃目標とし、北条家家康の要請を請け、徳川北条はそれぞれ同月中に真田領へ侵攻します。そうしてこれ以後、信濃、上野にまたがる真田領国は、断続的に家康北条両軍に攻撃されつづけることとなります。
そこで昌幸上杉景勝に「徳川のもとを去って上杉家の傘下に入りたい」と申し入れますが正式に認められたのは天正13年7月15日のことでした。
ところで、こうした状況のなか、昌幸は、景勝の主筋の秀吉に対しても、秀吉の側近を介して「心のこもったつきあいを結びたい」という旨の書状を秀吉に送り、秀吉もこれに答えて「今後は昌幸の有利をはかろう」と約束し、11月19日付の書状においては、「家康を討つために来年の1月15日には自ら東征の途につく」という東征計画を明かし、「その際には昌幸の領国にもじゅうぶんな援軍を差し向けよう」と約束したのですが、10日後に、前に述べた大地震が起ります。
地震をきっかけに秀吉政権は、家康および北条家を討伐する。という方針を突如とり下げ、家康を懐柔し、北条家に対しても、なるべく刺激しないようになります。
この時昌幸は、秀吉の心強い返事を受けて、徳川領である信濃佐久郡を攻略の目標に掲げ、「攻略したら知行をやるぞ」と家中の戦意を高揚させていました。
ところが昌幸の期待は裏切られ、まず天正14年の2月上旬、秀吉は、美濃大垣城に置いた一柳直末に対して、「家康を赦免したので東国へは出陣しない」という旨を伝えます(古文書あり)。
そして、昌幸に対しては、2月30日付の書状で「信濃の国境は関白(秀吉)が定めるのですぐに停戦せよ」と命じるのです。
更に秀吉は6月、上洛した上杉景勝に対して「真田は表裏卑怯の者だから、家康に命じて成敗することにした。なので、そのほうは一切手出しをしないように」
という話をした
のだという文書が残っているそうです。
秀吉家康真田成敗を容認し、上杉景勝に対して昌幸に援軍を出すのを禁じたといいます。
さらに、同じ頃に秀吉は、この景勝に、当時、家康の陣営を離反して秀吉の陣営に属していた真田昌幸、小笠原貞慶、木曽義昌ら信濃の武将を家康へ返すという構想も明かしていたという文書も残っているそうです。
つまり当時の秀吉は、家康の歓心を買おうと必死で、真田家はそのための犠牲となったのです。
ところが9月末になると秀吉は、今度は上杉景勝、「真田のこと、先に、表裏の者につき成敗せよと家康に命じたが、やっぱりそれはやめることにした」とする文書も存在するそうですが、
実際は、真田成敗の中止を決断したのは家康で、秀吉は、ただそれを追認したにすぎず、なぜ真田成敗がとりやめられたかといえば、この頃、「家康の上洛」という一大イベントがいよいよ現実味を帯びはじめており、秀吉家康の関心の比重もこの問題へと移っていたからだとか。
こうして真田討伐は中止されますが、「真田昌幸は今後家康の配下とする」という秀吉の通達があらためて11月4日に示されることとなる(同日付「上杉家文書」)。そうして秀吉家康が無事に対面をはたし、家康秀吉政権への出仕が現実のものとなったのちに、昌幸は正式に家康の配下となったのです。
ところが、当時、徳川北条は強固な同盟を結んでいた。にもかかわらず、家康の配下となった真田に対する北条家の攻撃が、これ以後も止まず、北条家がまったく遠慮することなく、上野の真田領に侵攻し、やがて北条氏の家臣名胡桃城真田昌幸沼田城の支城)を攻め、これが惣無事令(そうぶじれい:豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)違反とみなされ、秀吉より小田原征伐の命が下ります。
九州遠征に出かけるというその直前、その留守を預かることになる景勝に「もし北条が下知(命令)にそむき、佐竹、宇都宮、結城を攻撃したならば、後詰を命じるので、そのつもりで用意をしておくように」と言い残して旅立ったそうですが、しかし、この文章の中に、当時東国においてもっとも激しい抗争を繰り広げていた真田の名がないのはどういうことなのか?史書では触れられない、真田昌幸が直面した窮地の管理人は疑問を投げかけ、仮説として秀吉は、よくよく家康と打ち合わせたうえで、真田昌幸の抱える上野の地を餌に、北条家を懐柔し、結果昌幸は、秀吉にも景勝にも家康にも見放された状態で、大国北条家の標的となったと述べています。
当時の真田昌幸は、一大名としてその領土をまっとうするのは、ほぼ不可能な状況だったのです。
だから真田昌幸は、この窮地を脱するため、捨て身の覚悟で、天正16年の5月5日以降に上洛するのだ(柴辻俊六氏の見立てによる)。そうして秀吉政権に対して必死のロビー活動を何カ月にもわたって展開した。そしてその留守中に北条氏の家臣名胡桃城真田昌幸沼田城の支城)を攻め今度は北条家が滅亡に追い込まれるというあらたな悲劇が生まれることとなったとは・・・。
と締めくくっています。

ところで北条氏はなぜこれほどまで真田の沼田領に執着したのでしょう?

再三記しているように、徳川北条と領地交換の約定があり、北条家の領地は徳川に渡したのですが、徳川北条に渡す領地は、当時徳川に従属していた真田昌幸の沼田領だったのです。
だからこそ昌幸は、沼田領は真田が合戦で得た土地であり、徳川の領地ではないので北条に渡せないと断ったのです。
しかし北条氏政はどうしても沼田領がほしかったのです。
もともと、関東管領を名乗っていた北条氏政にとって、関東全域を支配することは非常に大きな意味を持ち、北条氏政は沼田領にこだわったというのです。
しかし、これが真田昌幸に拒絶されたので、北条の領地は徳川に渡したのに、交換条件が満たされないままとなってしまいました。
このような状況の中、好戦的な北条家の家臣が沼田領を勝手に攻めてしまったというのです。
記録によれば、北条氏政は、秀吉と和睦するつもりでした。
一方、秀吉の方は北条氏政の和睦の申し出を、うまくかわして和睦に応じるつもりはなかったようです。
秀吉北条は仲が良くなかったですし、北条家は信用できなかったので、和睦を受け入れるわけにはいきませんでした。
そこで、秀吉北条家を滅亡させたいために、偽(いつわ)りの命令書を作り、北条家の家臣に沼田領を攻めさせ、惣無事令違反という大義名分を得て、北条征伐に乗り出すことができたとする仮説が歴史の面白い謎5 | 人生を賢く生きる知恵には紹介されています。
 
 以上のような出来事を時系列で並べてみると、
但し、和号を西暦に直すのに日付が西暦に正しく変換されていないものもあるようで正確ではないかも。)
長篠の戦い天正3年5月21日:1575年7月9日)
  織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦い
武田家滅亡天正10年:1582年3月)
  織田信長徳川家康の連合軍が武田勝頼を滅ぼす。
空白地帯となった旧武田領をめぐって周辺の有力大名が、争奪戦を繰り広げる
本能寺の変天正10年6月2日:1582年6月21日)
  織田信長死去。
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん天正10年:1582年6月-10月29日)
  甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦い。徳川家北条氏直が、上杉景勝木曾義昌真田   昌を巻き込んで戦った。
武田領を収めていた織田家臣が逃げ出す。
秀吉織田信雄を安土城から退去させる。(1583年)
  織田豊臣の関係悪化
小牧・長久手の戦い天正12年:1584年3月6日)
  羽柴秀吉陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い
秀吉は伊賀と伊勢半国の割譲を条件に織田信雄に講和を申し入れる。(1584年)
昌幸信繁(真田幸村)を人質に出し上杉景勝に従属 (1584年9月)
 沼田領譲渡を拒否したことで家康報復行動に出ると考えたため。
秀吉昌幸宛の書状で「今後はの有利をはかろう」と約束
  天正13年10月17日:1585年11月13日?)
家康方と羽柴方(後の豊臣方)との間に和議が成立(1585年12月)
  和議に際して連合を組んでいた北条氏に対する約束事として昌幸沼田領を北条氏への引き渡し  を要求し、昌幸がこれを拒否
秀吉真田に対して「家康を攻める」とした日。しかし実行されなかった。(1586年1月15日)
秀吉真田家康を討つ計画を明かし、援軍を差し向けると約束
  天正13年11月19日付:1586年1月15日?)
⑭天正の大地震天正13年11月29日=1586年1月18日)
昌幸豊臣家に臣従(1586年5月)
  幸村(19〜22歳)は上杉景勝の人質から、天下人となった豊臣秀吉の人質として大坂に。
徳川による真田攻め(1586年5月25日) 
秀吉は九州平定へ(1586年7月−1587年4月
秀吉上杉景勝に対して真田は表裏卑怯の者だから、家康に命じて成敗することにした。
  なので、「そのほうは一切手出しをしないように」と話した(1586年8月3日付文書に残る)。
秀吉の調停により真田攻め中止(1586年8月7日)
家康は大坂城へ登城。家康秀吉への従属が決定天正14年:1586年10月27日)
21)真田昌幸、大阪城へ上洛(1588年5月5日から数ヶ月間)
  秀吉政権に対して必死のロビー活動を何カ月にもわたって展開
22)秀吉による田沼領裁定(1589年)
  これにより北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ます。
  言い換えれば昌幸沼田城を含む利根沼田の3分の2は北条氏になりましたが、真田氏の墓所   があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵されました。 
23)名胡桃城事件。(1589年11月)
  猪俣邦憲(北条家の沼田城の城代)が、鈴木重則(重名胡桃城を預かる真田方城代)の家臣を寝   返らせて名胡桃城を奪取した。この時昌幸は上洛していて不在。
24)小田原征伐(1590年)
  名胡桃城事件が、惣無事令(豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令。)に違反したとして秀吉の   怒りを買い小田原の北条氏を諸侯を集めて攻めた戦い。

どうですか?時系列的には大地震があったから、真田は滅ぼされず、東方(徳川北条)への遠征を急遽九州遠征に切り替えたという仮説、つじつまが合っていますか?
私的にはかなり無理がある気がしますが、皆さんの感想はいかでしょうか?
 
 
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