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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜九度山町ぶらり:里への思い深き故に戦い、無念を胸に死した真田昌幸
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関するページ●       
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて 
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
昌幸は伝令約も兼ね参戦→北条は徳川の生贄
つらく長い九度山での暮らし→流人の昌幸・幸村
 
               注:文中の●は真田●は徳川●は織田●は豊臣、●は武田です。
 
回は真田昌幸の思いをたどり、その生涯を顧みたいと思います。
 
真田信綱は、初代真田家の当主:真田幸隆(ゆきたか:1513−1574)の嫡男で、本来ならば真田家二代当主となるはずでした。
しかし武田軍織田徳川の連合国軍が戦った長篠の戦いでは、織田軍が始めて大規模な鉄砲隊を組織して実戦に用い、これによって武田軍は大廃して武田家滅亡のきっかけになり、信綱は戦死します。
この時幸隆の三男だった昌幸元服前後の15歳であったこともあり、実際に出陣したかどうかは定かではありませんが、昌幸は勇猛な武士であった長男:信綱を心から尊敬していました。
武田軍と言えば、、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく:おかしかすめる)すること火の如く、動かざること山の如し)を軍旗に掲げ(現代では「風林火山」として紹介されています。)、戦国時代最強の騎馬隊を有する軍として諸国に恐れられていました。
昌幸の兄:信綱もそうした軍団に加わっていたことでしょう。それが鉄砲隊を率いる信長軍の前ではなすすべもなく戦死してしまたのです。
この事実を知った時、昌幸は何を思ったでしょう。
 
兄を亡くした悲しみ、敵軍への憎しみは言うまでもなく、その思いの果てに、騎馬隊の無力さ、鉄砲隊の威力を痛感したに違いありません。
そして昌幸はすぐさま自身の戦術に織田軍が用いた鉄砲隊を応用します。
より効果的に、より洗練されて、より少数軍が大軍に対抗できる形態に変えて。それが第二次上田合戦で徳川秀忠軍を苦しめた篭城作戦の際用いた鉄砲隊です。
篭城戦においては武田軍戦い方は参考にできることは少なかったでしょう。そこで、山城での篭城を得意とした楠正成などの戦術も学んだことでしょうが、常に敵の強力な戦術を吸収していったのでしょう。
 
前回の〜九度山町ぶらり:真田が徳川に仇名した?違うよ!(両者因縁の始まり)〜では、甲州征伐で家康篭絡(ろうらく)などで武田方から裏切る者を画策し、武田家が滅んだことをご紹介しました。
家康が策略によって武田軍内の者を裏切らせたのは甲州征伐だけではなく、その後の戦いでも度々用いました。
 
この甲州征伐の後、昌幸は何を思ったでしょう。
同友の裏切りに対する怒り、家康のやり方への怒りの果てに、篭絡が戦術として極めて有効だということ、「憎き家康にはこうした策略をもって倍返しで報復しよう。そして今後は内なる敵を作らぬことに勤めよう。」と思ったに違いありません。
 
さらに、1584年、 家康は織田家の後継者問題で秀吉と対立し、小牧長久手の合戦にいたります。 この際、家康は後方の敵:北条家と和を結び秀吉との徹底抗戦に備えます。 家康は北条家に和の代償として、当主昌幸に無断で真田家の沼田城を北条家に割譲する約を結んでしまいます。
昌幸はこの家康の処遇に激怒します。
こうしたこともある意味では、「小国の真田は大国の我(家康)の行いを正す事などない」と踏んだ家康の策略といえるでしょう。
 
このように、一度は情けをもって家康の追撃に反対した昌幸は、恩を仇で返すようなしっぺ返しを受け、卑怯な策略を宿敵の家康のやり口から学び、家康にやり返したと言えます。
 
なぜなら昌幸は、同じ策略を用いる場合でも、旧武田領を取り戻すためにかつての仲間の旧武田家臣を取り込む時には、
これまで織田信長に潜伏していた旧武田家臣は、信長の死によって自由の身となると、小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら今後の身の振り方を話し合います。
昌幸はこの会合には参加せず、出席した家臣の一部を調略して、昌幸を総大将に仰ぐ事を表明させると他もこれ同調します。昌幸は彼らの意向を快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結びます。その他にも武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆家を自身の家臣にするため、寺領を寄進し、吾妻郡の地侍や豪族には金銭を与え、山伏として諸国を修行していた湯本三郎右衛門には所領を与えるなど、吾妻郡有力者の人心の掌握に務めたのです。
以上のように、昌幸は、領地の奪還や拡大などに際しては、宿敵家康に対する場合にはかつての仕打ちをやり返すように謀略をもって対処し、敵とみなさない相手に対しては、血を流さず、内なる敵を作らぬような知略をもって対処したことが伺えます。
全ての戦いなどにおいて、この鉄則を貫くことは出来なかったにしても、昌幸は明確な善悪をもって戦っていたように私には思えるのです。
そしてその戦略は、武田信玄から学んだ事よりも、むしろ敵から学んだことが多かったとも。
 
昌幸豊臣時代、大名となって領地を安堵されますが、その地は真田家が世に出た時から暮らしていた小県郡や心から仕えた武田家の旧領地のみで、最初から最後まで真田の里を守り、そこで人生を全う(まっとう)することだけを願って戦い続けた波乱万丈の人生だったのでしょう。
 
豊臣時代に家康の命に従った結果、不幸にして昌幸幸村は、長男信幸と決別し、一方は豊臣方に付き豊臣家と共に死を迎えますが、徳川方に付いた信幸は、長く徳川の大大名として子々孫々まで真田の血筋を世に残します。
昌幸は、若き頃に憧れた長兄:信綱の姿を我が次男:幸村に見、敵陣の中で強かに生き抜いた自分自身を我が長男:信幸に見ていたのかもしれません。
信綱の生まれ変わりと見ていた幸村と共に、宿敵:家康と戦い続けながらも、家康の武将としての力は認め、徳川の世が来ると予感した昌幸は、わが身の分身と見た信幸なら、徳川家の仲にあっても、強かに真田の家を守り抜いてくれるだろうと思ったに違いありません。
残念ながら、昌幸は、わが身から真田の郷を奪い去った家康を討つことも、真田の里で死す事も出来ず、里へ帰ることをひたすら願いながら、病の中でこの世を去ります。
後に残された幸村は、そんな父の姿を最後まで見届け、大坂の陣にその身を投じます。
父と自身の願いを無残に打ち砕いた宿敵:家康を討つ事のみを悲願に。
 
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 真田幸村が亡き父:昌幸のために建てた五輪塔
 
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真田地主大権現
 
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