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〜九度山町ぶらり:与謝蕪村が詠んだ真田の句〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
真田昌幸・幸村親子が徳川家康・秀忠に対する反逆罪で流された真田庵には、与謝蕪村が詠んだ句を刻んだ句碑が2つ建っています。
今から約30年近く前の1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)には NHKで『真田太平記』(さなだたいへいき)が放送されました。
当然この頃にも今と同じように真田庵に訪れる人は急増したことでしょう。
そこで、蕪村の二つの句に対する解釈を記したページを根気よく調べてみましたが、2つの句を紹介するページは多数あるものの、その意味を記しているページはほぼありません。
誰が見ても分かり易い句だから誰も紹介しなかったのでしょうか?
でもそれではページを見た人の心には何も残りませんし、間違っていても自分なりの解釈を添えるべきだと私は思います。
では私:上から目線 の解釈を2つの句と共にご紹介します。
解釈にあたって、私はあえて昌幸に心寄せて解釈してみました。
〈1句目〉
炬燵して 語れ真田が 冬の陣
(こたつして かたれさなだが ふゆのじん)
(解釈)
我は昌幸なり、真田の里へ帰ることも無いまま病に死した。無念だ。
縁あってこの地を訪れた者よ、今日はいつになく寒い日だ。コタツで暖をとりながらでもよいから、我が子:幸村の冬の陣での働きを聞かせてくれ。さすれば我心も温かくなる。
普通に蕪村の思いに心よせて、解釈すれば、
「昌幸の墓に参ったが、こんな寒い日は、速く帰ってコタツに入り、幸村の冬の陣での活躍を語るがいい。その方が昌幸の供養になる」
ぐらいの解釈がいいでしょうか?
〈2句目〉
かくれ住んで 花に真田が 謡かな
(かくれすんで はなにさなだが うたいかな)
(解釈)
我はこの異国の地で長く隠れ住み、最後を迎えた。辛く長い日々だったが、春ともなれば真田の里を思い、桜の花のもとで、唄い舞ったものよ。
普通に蕪村の思いに心よせた、解釈として
「こうして真田庵に佇み、当時のことに思いを馳せていると、真田父子が花(桜)の舞い散る中、謡を唄ったり舞を踊ったりする華やかな姿が思い浮かんでくる」という解釈が、名句鑑賞15 与謝蕪村 - 林誠司 俳句オデッセイ - Yahoo!ブログに紹介されていました。
このブログの管理人は、共に真田庵を訪れた叔父の解釈にふれ、 「しかし一緒にいた叔父は「俺にはこの句の良さがわかる」と言い、俳句をやっているお前がなぜ、この句の良さがわからないのだ、と言った。 叔父は、真田の実際の暮らしは、このような優雅なものではない。 蕪村はそれを承知の上であえて、このように詠んだのだと言ったのである。 真田父子は、関が原の戦いで石田三成の西軍に味方した責を問われ、ここに蟄居を命じられた。 東軍についた昌幸の長男、幸村の兄である真田信幸が徳川に必死の説得工作をして、ひたすら赦免される日を待っていたのだが、ついにその知らせを聞くことなく、父の昌幸は死亡した。 残された幸村は、もう赦免されることはないと思い、大阪の陣を迎え、戦国武将としての最後の花を咲かせるため、九度山を脱出し、大阪の豊臣方へはせ参じたのである。 真田親子にとってひたすら赦免を待つ日々は心細く、悩み多き日々であったに違いない。 蕪村は、その日々を思いやりながら、この句を詠ったのだ、と言っていた。」 と記しています。
ですが私は、大坂の陣に向かう時、最後に死に花を咲かそうとしたとは思いません。
昌幸も幸村も、「家康はいずれ必ず豊臣を滅ぼすために動く、その時、家康を止める つわもの など今の豊臣の中には居らぬ。必ず我らを援軍にと誘い来るだろう。その時こそ我らが悲願、家康を討つ時ぞ!」
と思っていた。
しかし昌幸はその日を待たずして病を得、死したのだという気がします。
いや、そう思いたいのかもしれまっせん。でなければ、・・・・・あまりに悲しいと。
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