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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜九度山町ぶらり:幸村の生涯と関連する出来事
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関するページ●       
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて 
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
昌幸は伝令約も兼ね参戦→北条は徳川の生贄
つらく長い九度山での暮らし→流人の昌幸・幸村
だますなら だましてやろう 家康を→この昌幸が
謀略も真田の里を守りたいがために→昌幸の心
真田庵に訪れ、真田の哀れを詠んだ→蕪村の句
幸村の生涯に係わる出来事→戦国最後の英雄
 
【お知らせ】
●幸村18歳の時(1584年)の中の室賀信俊は、大河「真田丸」が描こうとするもの ―室賀氏の紹介などを ...の記述などから、室賀正武の誤りだったようですので、後日訂正しました。

真田幸村が世に知られるようになったのは、大坂冬の陣・大坂夏の陣での働きのみです。
そこで今回は、幸村の生涯の間に起きた出来事を紹介してその生い立ちに迫りたいと思います。
私自身が言うのもなんですが、単なる無機的な年表とは違って、丹念に読んで行くと、結構面白いものになったと思っています(時間かかってますから)。
 
■真田幸村(信繁)の生涯とかかわる出来事■
●幸村誕生1567年
真田幸村(信繁)は昌幸の次男として生まれますが、父:昌幸はこの時、武田家の家臣:武藤の養子だったため、幸村も武藤信繁として生まれます。(一言:兄信幸は1565年生まれの2歳違いです。)
=11
父:昌幸は、この頃既に武藤家を継いで、重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られています。
●幸村?歳の時から(?年から)
幸村の祖父:幸綱(幸隆)は武田家において上野国岩櫃城(いわびつじょう:現在の群馬県吾妻郡東吾妻町にあった山城)の城代として越後上杉領を監視する立場にあったため、昌幸も城代を引き継ぎます。そのため幸村は父に付き従い、主に岩櫃城育ったと考えられます。
一言:何歳の頃から幸村が岩櫃城にいたのかはわかりませんが、戦国の有り様、父の戦いを知る機会は少なからずあった事でしょう。)
●幸村6歳の時(1572年)=10月=
父:昌幸は、信玄の西上作戦最終目的は不明ですが、信玄が徳川家康の三河へと進軍した遠征)に参陣します
。(一言真相は定かではないですが、信玄は、将軍の要請に答えて織田包囲網の一躍を担うべくこの作戦を行ったとも言われます。真田と徳川の因縁はここから始まったのかも。)
=12月=
父:昌幸は、西上作戦の過程で起きた三方ヶ原の戦い(武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人・織田信長からの援軍3,000人との間で行われた戦い)に参陣します。
この頃の昌幸は、戦死した養父の武藤三郎左衛門尉の遺領を継いで、信玄の弟・武田信実とほぼ同格の地位にあったと見られています。(一言:この時25歳の昌幸が初めて家康軍と接触します。)
●幸村7歳の時(1573年4月12日)
甲斐の虎として戦国時代から今日まで、名をはせる武田家当主:武田信玄が病没します
一言幸村は、真田家(この時は武藤家)存亡の危機を皮膚感覚で理解し、武将としての覚悟を強くしたことでしょう。)
●幸村9歳の時(1575年5月21日)
長篠の戦いで父:昌幸の長兄:信綱と次男昌輝が戦死し、父:昌幸は真田家に復帰し、
真田昌幸となり、その子:幸村も真田信繁となります
一言真田の幸村となります。9歳の幸村には戦場を知ることは出来なかったでしょうが、二人の叔父(信綱・昌輝)が戦死した時、負けた武田軍の強さや、敵の小田軍の鉄砲隊の話は聞き及んだことでしょう。)
 ●幸村16歳の時(1582年)
=3月11日=
信玄の嫡子:武田勝頼が、甲斐国田野で一族とともに自殺したことで武田家が滅亡。
真田家の根幹だった武田家が滅亡したことで、父:昌幸は真田家存続の道を模索し始めます。
一言父の覚悟は、長男:信幸・次男:幸村に対してもハッキリと伝えられたことでしょう。)
=?月=
武田家が信長の武田征伐によって滅ぼされると、武田家で人質だった兄:信幸が同じく人質だった母:山手殿と共に上田へと逃れて戻り、家族が揃います。
一言無事に家族が揃い、つかの間の喜びに宴を催し、これまで以上に家族の絆を強くしたことでしょう。)
=4月=
父:昌幸は武田勝頼を討った織田信長に馬を贈り、臣従します。
一言元服した?幸村は、父と共にに小国が生き残る事の困難・そのための知恵を痛感したことでしょう。)
=6月21日=
織田信長が本能寺の変で討たれます。
武田家が滅亡したことで、旧武田領は、周辺諸国の争奪戦となり、甲信地方一帯は、この時覇権を握っていた織田家によって統治されていましたが、信長が討たれたため、この地の城代は領地を放棄します。(一言幸村は、自身の初陣が近い事を予感したかもしれません。)
=?月=
兄:信幸(18歳)は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城(現在の松代城:長野県長野市松代町松代にある)を撹乱します。これが信幸の初陣でしょう。(一言:幸村も兄に従って近くまで来ていたのでは?)
=10月=
小県郡を完全掌握するために小県郡と佐久の諸侯は、信濃へ進出してきた徳川氏に出仕し、主従関係を結びますが、父:昌幸は小県郡の独力による統一戦を進め、領土の隣接する室賀氏の居館を攻めますが、この戦は室賀氏より和議の申し入れがあり決着が着きませんでした。
●幸村17歳の時(1583年)
上田・小県地方制圧の拠点として上田城の築城に着手します。
一言:寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片が出土していること、同時期の近隣諸城や嫡男真田信幸の沼田城に天守があることなど、いくつかの傍証から真田昌幸時代に天守が存在した可能性があるそうです。青年 幸村は、上田城築城にわが身の未来を夢見た事でしょう。)
●幸村18歳の時(1584年)
=3月=
羽柴秀吉陣と織田信雄(信長の次男)・徳川家康陣営の間で行われた小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力を率いて尾張に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制(けんせい)するために信濃に残留します。
=?月=
父:昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城(現在の群馬県渋川市白井にある)を攻めさせ、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状( ちぎょうあてがいじょう:主君から家臣に与えた,知行の 割当てを示しその知行の権利を保証した文書 で、発給者たる主君と受給者たる家臣との主従関係を象徴する。)を乱発して沼田・吾妻の所領を改めて確保します。
一言:昌幸は家康不在のすきに、自身の隊を動かすことなく、知略で所領を確保したのは、さすがです。これほど思惑通りに行くとは、幸村にとっても驚きの戦略だったことでしょう。)
=6月=
室賀正武は、長篠城や田中城の城守として武田家につくします。
しかし、武田家滅亡後、共に武田家家臣の真田昌幸と室賀正武は、信濃の派遣を争い戦いますが、決着がつかず、室賀氏よりの和議の申し入れを受け入れます。
ところが室賀正武は和議の一方で徳川家康と内通していました。
=?月=
家康が室賀氏に真田討伐を命じた情報を事前に入手した父:昌幸は、室賀正武を完成間近の上田城に招き謀殺します。(恐らくこの時に室賀の家督相続予定者は浪人となり、室賀郷は真田領に併合された可能性が高い。) らんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜 原畑城(上田市)より
こうして父:昌幸は、沼田・吾妻・小県を真田領として完全に掌握します。
一言現代感覚では謀殺はダーティーに思えますが、和議の一方で徳川に通じていたことが、昌幸には許せなかったし、そうしなければ、真田はここで滅んでいたのかもしれませんね。)
=12月=
家康は羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵します。
一言これで家康は矛先を東に集中できます。真田にとっては赤信号です。)
●幸村19歳の時(1585年)
=4月=
父:昌幸は、家康からの北条氏への沼田領引き渡し要請を拒否します。
背景;本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたことで、織田の統治下から離れた甲信地方一帯で徳川・北条の大国に加え、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も巻き込んで領土争いを繰り広げていました天正壬午の乱)が和睦交渉により、甲斐一国と川中島四郡を除く信濃は徳川が、上野一国は北条が領することで話がまとまり、北条氏直から和議の条件の履行を迫られた家康は、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めます。しかし昌幸は武田氏時代に自力で奪い取った領地であり、沼田は軍事面でも政治面でも要所となる。相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否します。
一言:昌幸が拒否する理由とした内容は、秀吉に対するアピールで、本音では、信濃は真田もしくはその源流の海野氏にとっての伝来の所領で、上野は旧武田の所領と思っていたことでしょう。)
=7月15日=
父:昌幸は、越後上杉氏と同盟し、その臣従の証として幸村を上杉家へ人質に出します。
=8月=
家康が上田城を攻める第一次上田合戦が起こります。
父:昌幸が上杉氏と同盟したことを知った家康は、臣下である室賀正武を謀殺した事を理由に7000の兵を真田討伐軍として上田へと出陣させ、上田城の二の丸まで進みますが、ここで昌幸は反撃し、更に追撃を加えます。砥石城の信幸や矢沢城の矢沢頼康も討って出たことから、徳川軍は総崩れとなって1300人が戦死、真田勢の死者はわずか40人でした。兄:信幸は支城の戸石城に篭城して戦いました。
この戦いで昌幸は優れた智謀であると評され、徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を兄:信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなります。
一言父 昌幸にとっての生涯の敵 家康との全身全霊を掛けた戦いが、敵将に認められ、結果親子が、家族への思いに反して骨肉の激突を招くとは、皮肉ですね。)
=11月=
徳川譜代の重臣:石川数正が出奔(しゅっぽん)し、豊臣秀吉の家臣となる事件が起こったことで、徳川軍は、真田領の佐久・上田から完全に撤退します。
(数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしており、以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。この改革に尽力したのが、武田家が滅亡した際に、家康が信長による武田の残党狩りからかくまった武田の遺臣達だそうです。)
一言数正が出奔した理由には幾つかの説があり、中には出奔したふりをして豊臣をスパイする役を担ったとする説もありますが、それなら家康が慌てて撤退しないでしょう。真田としては助かりました。)
=9月〜翌年5月まで=
徳川と同盟関係にあった北条は、上田合戦に連動して、北条家も沼田城に数回に渡って攻撃を開始します。(一言:北条はやがて徳川らにはめられ、領地も徳川にとられ、滅亡するんですね。)
=11月〜12月=
父:昌幸は豊臣秀吉に臣従し、真田幸村は上杉家から出て秀吉への人質として出仕します。
(沼田領問題を秀吉に直訴します。家康やむなく浜松城に引き返します。)
一言昌幸を知る家康としては、幸村が秀吉への人質となったことは、不気味だったことでしょう。)
●幸村20歳の時(1586年)
=5月25日=
北条軍は沼田城から敗退。昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱撃退しています。
一言:連動していた家康が撤兵したことも大きかったですね。)
=8月3日=
石田三成らによって、父:昌幸は「表裏比興の者」と称されます
一言:後の大坂の陣では、昌幸の子:幸村に援軍を要請する癖に!三成こそ「表裏比興の者」です。)
=8月7日=
豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ、家康による真田攻めは中止されます。
但し、家康家臣の水野忠重に真田討伐の支持を送ります。景勝に対しても昌幸支援を禁じ、家康の真田討伐に強力するよう命じます。
一言秀吉は、家康には真田討伐を中止させ、家康家臣の水野には真田討伐の支持を与えるとはどういうことでしょう?家康の影武者とする情報もあります。とすると・・・・どうなるの?家康に信濃・甲斐を奪われるを嫌って、水野に恩賞を餌に真田を討たせ、その領地を独り占めするとか。表向き徳川軍を引かせて、真田をだまし討ちにするとか???)
=?月?日=
しかし、真田討伐は突如中止となります
〜九度山町ぶらり:秀吉も真田家を滅ぼしたかった〜では、なぜ真田討伐がとりやめられたかといえば、この頃、「家康の上洛」という一大イベントがいよいよ現実味を帯びはじめており、秀吉家康の関心の比重もこの問題へと移っていたからだとか。紹介しました。
一言:ですが、水野忠重が策をもって真田を討つことに失敗もしくは、昌幸に篭絡されたからかも?)
=9月=
秀吉の真田氏に対する姿勢は二転三転しました。・・・・秀吉は、徳川氏と上杉氏への牽制に真田氏を利用していた可能性があります。とrokumonsen.com/真田年代記/織田・豊臣時代にはあります。
=10月=
徳川家康はついに豊臣秀吉の臣下の礼をとります。
これにより秀吉は徳川家康に関東を任せることとし、上杉景勝へは、昌幸が所領を家康に返せば上杉が真田を支援した罪を免じると知らせ、真田昌幸の上洛を命じます。
一言:昌幸上洛もひょっとして家康の進言?)
11月4日
秀吉の命により、昌幸は家康の与力となります。
一言とうとう昌幸は家康にからめとられました。さあ、どうする?)
幸村21歳の時(1587年)
=3月=
昌幸は、駿府に出向き家康と会見。その後上洛して秀吉に拝謁(はいえつ)。
一言:昌幸にとっては、秀吉に取り入るチャンスです。)
●幸村23歳の時(1589年)
=2月13日=
真田信幸が徳川家康に出仕。家康は信幸の才能を高く評価し、本田忠勝の娘:小松姫を家康の養女にした上で信幸にめとらせます。
一言:家康は真田を恐れた半面、その知力を買っていた。)
=7月14日=
秀吉による沼田領問題の裁定の結果、後北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ています。これにより、沼田城は北条氏の城となり、沼田城の支城であった名胡桃城は、真田氏の城となります。
一言:この裁定が、北条氏終焉の始まりです。)
=11月3日=
秀吉の裁定により、北条と真田の領地は確定していたにもかかわらず、北条家の沼田城城代が、真田家の名胡桃城代の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する名胡桃城事件が勃発します。
一言:家康による謀略?それとも、秀吉・家康・昌幸の思惑が一致した策略かも。)
●幸村24歳の時(1590年)
=3月=
名胡桃城事件を耳にした秀吉は、惣無事令(豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令。)違反を名目に小田原征伐の命を下します。
幸村は、小田原城攻めに、父:昌幸、兄:信幸、前田利家、上杉景勝と共に北国隊としてに参戦します。
=4月19日=
昌幸、松井田城を攻略する。松井田城攻略が幸村の初陣となります。
一言:初陣が24歳とは随分遅いですね。本当に初陣?)
=7月上旬=
武蔵・忍城を真田昌幸が攻略。7月5日には小田原城が降伏します。
=7月下旬=
秀吉より沼田領を安堵され、昌幸は信幸に支配をゆだねます)。
一言:昌幸は我身のてん末を予感していたのかもしれません。
=8月=
幸村は、父:昌幸、兄:信幸と共に、秀吉の奥州仕置(秀吉による東北地方に対する領土仕置)に参加します。
●幸村26歳の時(1592年)
=2月上旬=
 昌幸、信幸、幸村、朝鮮の役に参陣するため、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋名護屋城がある。)におもむきます。
=11月=
幸村は秀吉より従五位下左衛門佐に、兄:信幸は伊豆守に任ぜられます。
●幸村32歳の時(1598年8月18日)
豊臣秀吉が、病没します。(秀吉の死はしばらくの間秘密とされますが、早くから周知の事実となる。)
これにより、内大臣の徳川家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになり、家康は天下人への道を歩みだします。
●幸村34歳の時(1600年)
家康の豊臣家を ないがしろ にした行動が目立つようになります。
例えば生前の秀吉により禁止と定められた、大名家同士の婚姻を推し進め、婚約した娘は、全て家康の養女とします(一言:真田信幸に養女をめとらせたのと同様に)。
更に家康に従わない大名に対しては、策謀により蟄居(ちっきょ)や追放の処分とし、柔順の意を示す大名を次々と支配下に組み込んで行きますが、その反面で、家康にとって貢献のあった大名に対しては、秀頼の名のもとに加増を行っています。
1598年6月から1600年7月までの2年間にわたり、昌幸が上田領に発給した文書は見つかっていないことから、この頃の昌幸は上京していたと推測され、昌幸は表向き家康に従っていたようです。
家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国元にいる信幸に向けて送っています。
=3月13日=
家康が大坂城に入ります。
=7月=
幸村は、昌幸、信幸、家康と共に会津の上杉景勝を討つため関東に向かいます。
(秀吉が亡くなり、その遺児:秀頼を託された前田利家も亡くなると、後ろ盾を失った文治派の石田三成は、武断派(武力をもって政治を行おうとする派)に命を狙われ、領地へ逃げざるおえなかった。結果として豊臣政権の主導権を得た家康は、自身と同じく五大老の一員である上杉景勝に謀反の疑いをかけます。これに対して景勝の側近:直江兼続が家康を非難する手紙を送ったため、激怒した家康は、上杉討伐の軍勢を起こした。)(一言:本当に家康は謀略の申し子ですね。)
=7月17日=
豊臣家五奉行から、家康を討つべき旨の連署状(家臣一同が名前を連ねて花押や捺印し、主君に提出したもの。)が、豊臣家に恩義のある各大名に送られます。
=7月21日=
昌幸らの下野犬伏の陣に石田三成の密使が到着(一言昌幸を「表裏比興の者」と称したくせに)。
昌幸、信幸、幸村の三人で真田家の去就を話し合い、昌幸、幸村は西軍につくことを決め、徳川の陣を離れ上田に向かいます。
信幸は徳川方に残り、その旨を家康に報告する。
一言昌幸は家康に恨み骨髄でしたが、3人とも家康の天下は必死と見て信幸を徳川方としたのかもしれません。)
=9月6日=
 秀忠軍、昌幸、幸村の篭る上田城を攻めて敗れる(第二次上田合戦決着)。
一言ここで秀忠を苦しめたことが、昌幸・幸村の末路を決めてしまいますが、昌幸敗北でも大差はなかったでしょうね。)
=9月15日=
 関ヶ原の合戦で西軍が敗れます。
一言秀吉亡きあと、関ヶ原で西軍が勝っていたとしても、家康が存命な限り、徳川の天下はいずれ訪れたでしょう。家康が討たれていたら、再び戦国時代だったでしょうし。ですが真田は当分安泰だったかな?)
=?月?日=
戦後信幸は加増され、上田、沼田合わせて九万五千石となるが、舅(しゅうと)の本多氏と共に昌幸・幸村の助命に奔走します。一言:真田の結束は固いですね。)
=12月12日=
 昌幸、幸村、高野山麓の九度山に配流される。
一言真田親子を高野ではなく家康の近隣に置けば、強く監視できたでしょうに、家康にはそれが怖かったのでしょうか?)
●幸村35歳の時1601年8月22日
真田幸昌(大助)誕生
一言:幸村にとっては待望の嫡男?家督を継ぐこともなく、やがて大坂で・・・とは、なんとも・・・)
●幸村45歳の時(1611年6月4日)
 昌幸、配流先の九度山で病死し、本領の真田長谷寺に葬られる。
昌幸の死後、それまで従っていた家臣も、ほとんど上田に帰って行きます。
一言:死してようやく里に帰れたのですね。)
●幸村46歳の時(1612年)
幸村、入道して好白と号します。
一言:父と同じ死を覚悟して、父の供養で余生を過ごそうとしたのでしょうか?でなければ、耐えられないと)
●幸村47歳の時(1613年)6月3日
母:観月院(山手殿)死去。
●幸村48歳の時(1614年)
=10月1日=
 家康、大坂追討を命令。
これを受けて石田三成は九度山の真田幸村の元に密使と共に支度金を送り、援軍を要請します。
一言幸村にとっては、待ち望んだ知らせだったでしょう。この時点で、死に花を咲かせる気はこれっぽちも無かったと思います。家康に勝てると)
=10月9日=
幸村、嫡子の大助らとともに大坂城に入城します。
(幸村は徳川軍が大阪城に集結する前に家康本陣に向け打って出ることを進言しますが、臆病な大名はこれに反対します。)
幸村は止む無く、大坂城玉造口に真田丸を設けて迎撃する作戦に切り替えます。
一言篭城作戦を進言する多くの豊臣方大名は、難攻不落と言われた小田原城の末路すら脳裏に無かったのでしょうか?おバカです。)
 =12月4日=
東軍、真田丸を攻めるが、敗退する。本多正純、幸村に降参するよう求めるが、幸村は応じず。
=12月20日=
東軍と大坂方の間に和議が成立する。(家康軍は大砲を打ち続ける事で、大坂方の臆病な連中に精神的な脅しを掛けます。)この和議の条件で、大阪城の外堀と中堀は埋められてしまいます。
 
●幸村49歳の時(1615年)
=1月24日=
幸村、大坂城中より上田にいる姉・村松殿に手紙を送ります。
一言:ここで初めて幸村は死を覚悟したのでしょう。)
=2月10日=
幸村、石合十蔵に手紙を送り、決死の覚悟を述べています。
一言:幸村には堀田五兵衛の娘との間には長女阿菊(すへ)殿が産まれています。 長男堀田興重の養女として育てられ、 その後小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁いだそうです。娘への別れだったんですね。)
=3月10日=
 幸村、姉婿(あねむこ)・小山田壱岐に手紙を送り、秀頼の厚遇と城中気遣いのみ多いことなどを述べています。(一言これは姉への別れを告げたのでしょう。)
=4月6日=
徳川家康、大坂再征を命令する。
一言:家康は、最初から豊臣の血を残す気など更々無かったのです。)
=5月6日=
道明寺の戦いで、後藤又兵衛、薄田隼人ら討死。幸村、伊達隊と交戦する。
一言:伊達政宗も家康にとっては目の上のタンコブでした。家康にしてみれば、幸村・正宗のどちらが負けても・・・・いや、共倒れしてくれれば最高だったのでしょう。)
=5月7日=
幸村は練り上げた作戦も打ちあけ、秀頼の出馬を乞います。
しかし毛利軍の想定外の突出によりこの作戦は実行不可能になります。
そればかりか、家康は,ここでも謀略をを打ってきます。
なんと秀頼に和平の使者を送りこんできます。大坂方もこれを無視すればよいものを、なんと城内に迎え、まんまと家康の策謀にたぶらかされた結果、総大将秀頼の出馬は実行されなかった。
信繁は倅(せがれ)の幸昌を派して御出馬を促すのであったが,淀殿の反対と秀頼の優柔不断に遭って虚しく幸村の元へ引き返してきます。
 作戦の全てが果たされないものと観念した信繁は、突進していく味方毛利軍の勢いを黙殺することもできず、幸村、家康の本陣へ突撃します。
そして一時は家康を窮地へ追い込みますが、討死します。
享年49歳。 奇(く)しくも上杉謙信や織田信長と同じ年齢でこの世を去ります。
一言幸村は悲劇の英雄ですが、死して永遠の魂を得ます。家康も真田列伝を後世に伝える伝道師として生き残ったとも言えませんか?嫡男:大助も秀頼と共に殉死)
 
イメージ 1
真田祭りの真田幸村
 
イメージ 2
真田祭りの真田武者
 
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