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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜九度山町ぶらり:大坂の陣 序曲(幸村の戦いは軍議から)
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関するページ●       
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて 
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
昌幸は伝令約も兼ね参戦→北条は徳川の生贄
つらく長い九度山での暮らし→流人の昌幸・幸村
だますなら だましてやろう 家康を→この昌幸が
謀略も真田の里を守りたいがために→昌幸の心
真田庵に訪れ、真田の哀れを詠んだ→蕪村の句
幸村の生涯に係わる出来事→戦国最後の英雄
秀次切腹から始まる真田の悲劇→もしものお話 
関ヶ原の戦い〜大坂冬の陣→幸村伝説の始まり
九度山脱出から大阪城、軍議の行方→篭城作戦
 
1611年6月4日、真田幸村は45歳の時、父: 昌幸、配流先の九度山で病死し、それまで付き従っていた家臣たちも国元へと帰ってしまい、1612年幸村46歳の時、入道して好白と号します。
 〜九度山町ぶらり:幸村の生涯と関連する出来事〜の中でも記したように、この時幸村は、それまで親子で共有していた家康征伐の機会を断念し、九度山の地で父を弔いながらの余生を覚悟していたと思えます。
1614年10月9日、更に幸村の母:山手殿((寒松院))も世を去ります。
この時の幸村はどれほど心細かったことでしょう。
この頃幸村が国元に送った書状には、「こちらの冬は不自由にて、いっそ寂しく思う。私のうらぶれた様子を使者が話すだろう。もはやお目にかかることはない。とにかく歳を取って残念である。」と心境をつづっています。
また、容姿についても、「急に歳をとり、病身となって、歯も抜けた。髪なども黒いところは無い。」とつづっています。
しかし、その年の10月ごろ、そんな失意の幸村のもとに、大阪城に登城し、家康との合戦への加勢を要請するため、その支度金として黄金二百枚・銀三十巻を携えて、豊臣秀頼の使者が密かに訪れます。
幸村にしてみれば、待ちに待った知らせであった事は言うまでもないでしょう。
10月9日、真田幸村・大助(幸昌)父子は、監視の目を逃れ、九度山を脱出(恐らく、夜陰に乗じ、村人の強力も得ての脱出)し、大坂城へと向かいます。
この時、鉄砲と刀槍を抱えた百人ばかりの勢だったため、途中の村の人々はその通過を止められなかったといいます。
『九度山町史』や『真武内伝』によれば、田所庄衛門らの地侍が加わっていたり、多くの兵が信州から来たとも言われ、幸村の人望が伺えます。
九度山を脱出した翌日の10月10には、大阪城に入城します。
この時、「のぼり、指物、具足、鎧、ほろ以下、上下ともに赤一色」だったと伝えられます。現在も語られる、赤備えの武者姿だったということですね。
そして迎えた秀頼は、幸村を歓迎し、勝利のあかつきには、五十万石を与えると約束したと言います。
対して幸村入城の知らせを聞いた家康は、「親か子か」と聞き返し、手のかかった仕切り戸がガタガタと鳴り響くほどに震えた様子だったものの、入城したのは昌幸ではなく、その子:幸村であることを聞くと安堵して、震えも止まったとも言われますが、チョッと眉唾ものの話のようにも思えます。
それにしても、現代でも渋滞もあるので車で3時間ほどはかかるところを、武器と甲冑をまとった?武者が、九度山から大阪城まで歩いてたった1昼夜で到着できるのでしょうか?
山を越え、谷を超えて?にわかに信じられません。
私の感覚では、不可能と言うほかはありません。
現在ではは65キロ弱ですが、当時は今のような直線的な道ではなく、紀見峠にトンネルもありません。この峠を歩いて越えるだけで、数時間を要することは間違いありません。
(私が子供の頃、紀見峠のつづら織りのデコボコ道を、ミゼットという軽三輪自動車で超えるのに、1時間ぐらいはかかっていたでしょうか。)
大阪城〜九度山間の当時に近いルートを歩いた方はおられませんか?
 
ともわれ幸村は一隊の長として待遇されるのですが、大野三兄弟や秀頼の母:淀殿らからは、
「所詮、浪人上がり」と見下されていました。
 
11月15日、ついに大坂冬の陣が開戦されます。
 
幸村は篭城を下策として、まず京を抑えて宇治から瀬田のラインで迎撃することを提案します。
これには後藤又衛門も賛同しますが、野戦経験の少ない大野兄弟らが反対し、幸村の案は聞き入れられず、篭城と決してしまいます。
大坂城の防衛能力を過信していたのか、臆病者が多かったのか、結局は幸村を本音では信頼していなかったのでしょう。
それどころか、もっと言えば、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした小田原征伐では、町全体が要塞と化した小田原城の篭城戦ですら落城したことすら記憶の中によぎらなかったのでしょうか?
恐ろしくおバカな武将が豊臣方の過半数を占めていたということなのでしょう。
 
しかし、この軍議で幸村の持ち場が決められ、城の弱点に出丸を築いて守ることとなります。
これこそが、有名な真田丸です。
 
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