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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜九度山町ぶらり:大坂冬の陣(幸村の奮戦実らず)
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関するページ●       
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱 
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷 
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に? 
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵 
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院 
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて 
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
昌幸は伝令約も兼ね参戦→北条は徳川の生贄
つらく長い九度山での暮らし→流人の昌幸・幸村
だますなら だましてやろう 家康を→この昌幸が
謀略も真田の里を守りたいがために→昌幸の心
真田庵に訪れ、真田の哀れを詠んだ→蕪村の句
幸村の生涯に係わる出来事→戦国最後の英雄
秀次切腹から始まる真田の悲劇→もしものお話 
関ヶ原の戦い〜大坂冬の陣→幸村伝説の始まり
九度山脱出から大阪城、軍議の行方→篭城作戦
淀殿・幸村VS家康・秀忠→先を読む者,読めぬ
 
大坂冬の陣は、10月11日家康は軍勢を率いて駿府を出発し、1614年11月15日、徳川家康・秀忠父子が京都の二条城を発ち大坂へと進軍します。家康はこの開戦が決まると、いつになく若やいだと本多正純は記しています。
一言:家康は、ようやく念願の豊臣家を討つ時が来たと、ワクワクしていたのでしょう。)
開戦は、11月18日、大坂城から海に至る要衝である木津川口に築いた砦をめぐる戦いで始ります。
この砦には、明石全登を守将に兵800で守備させていました。
11月18日、この地を偵察した徳川軍の蜂須賀至鎮は、家康に攻略の許可を求め、家康は浅野長晟および池田忠雄と協力し、兵を損じないことを条件にそれを許可しました。
しかし、蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないことに不満を抱き、11月19日未明、浅野・池田の隊到着を待たずに単独攻撃を行い、明石全登は大坂城にて君主:宇喜多氏に仕えており、不在だったため守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。
豊臣家にとっては存亡を掛けた戦いであるにもかかわらず、徳川軍の進軍を察知することもできなかったのでしょうか、何とも間の抜けた戦いから大坂冬の陣の火蓋は切って落とされます。
この前哨戦を見るだけで、大坂方の指揮の低さが伺われます。
 
この後、11月26日には現在の城東区を流れる武庫川の両岸の堤防部で行われた鴫野・今福の戦い、
11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた博労淵の戦いや野田・福島の戦いなど、数ヶ所で両軍が戦いましたが、大坂方の砦は、次々と陥落します。
翌11月30日には豊臣軍は残りの砦を破棄し、大坂城に撤収するという体たらくでした。
 
これ以後、情け無いと言うか、予定通りと言うか、大阪城の篭城戦へと突入します。
開戦から半月を待たずして城内への封じ込めに成功したことで、豊臣方の指揮が想像以上に低い事を見てとった家康は、すぐさま約20万の軍で大阪城を完全に包囲します。
そして12月2日、住吉に設けた本陣を出5日には大阪城の南側5・6町にある高台の茶臼山(現在の大阪市天王寺区茶臼山)に移すと、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じます。
現在の茶臼山には、堀越神社があり、神域の森に覆われていますが、当時はどうだったのでしょう。当時も森に覆われてはいたものの、櫓を組むことで戦況を目視することも可能だったのかもしれませんね。
 
10月22日、家康は方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布し、
12月4日より各隊は竹束(たけたば:盾の一種)・塹壕(ざんごう:戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守るために使う穴または溝)・築山などの敵城に接近するための施設の構築を行いつつ大坂城に接近していきました。
ところで方広寺と言えば、梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと難癖をつけたあの梵鐘のあるお寺です。
そこで作成させた鉄槍を配下の各将に送るとは、いかにも家康らしい陰険なやり方です。
 
 
この接近時の12月3日、4日に豊臣方の挑発に乗って始められた真田丸・城南の攻防戦は、包囲戦における最大の戦いとなります。
12月3日、真田幸村真田丸において前田利常隊を撃破し、
12月4日には、越前松平勢と前田勢が真田丸を襲いますが、逆に真田幸村・大助父子はこれを撃退します。
この勝利の勢いに乗じて豊臣方徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えました。
 
この真田丸の戦果を耳にした秀忠は、あの第二次上田合戦で、真田昌幸・幸村親子に辛酸をなめさせられた事を、思い起こしたに違いありません。
同日12月4日に家康が講和を策している事を知り、茶臼山の西側にある岡山に着陣し、家康に総攻撃を具申しますが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこの進言を退けています。
ここで、秀忠が独断で真田丸を攻めていたなら、戦況は豊臣方有利により傾いていたことでしょう。
しかし、12月5日、住吉から茶臼山に本陣を移した家康は、12月8日までに到着した部隊にも敵城に接近するための施設の構築を命じています。
 
そして施設の構築が進んだ12月9日より、家康は大坂城に対する攻城を本格化させます。
11月23日よりに命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤が12月9日に完成し、淀川の水を膝下まで下げ、後日大和川の塞き止めも行います。
これにより、徳川軍は大坂城を北面から攻めることが容易となり、真田丸が善戦する南面から攻める必要性は低下してゆきます。
さらに、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨(とき)の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘って城内の不安を誘う心理作戦も強化します。この鬨(とき)の声は京まで届いたと言われます。
この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、徳川方の敵城に接近するための施設は、外堀の際まで接近し、大名たちの陣には、城から7間に近接していました。
10日には投降を促す矢文を送り、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊するための坑道掘削を始めます。
12月13日、家康は大名一人につき50本の熊手付きハシゴを配っています。
これは、石垣や門などを登る際に使用するものでしょう。
更に、船場の堀の埋め立ても命じます。
そして12月16日から全軍より一斉砲撃が始められます
方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち続けられました。
 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門が作った大砲の他、イギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、途切れることはなかったといいます。
特に、12月16日に徳川方の放ったカルバリン砲のものと思われる玉が大坂城天守に着弾し、侍女数人が即死する事件では、城内に篭城する女・子供、さしずめ淀殿や豊臣秀頼には、多大な恐怖感を与えることに成功しています。
 
これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、徳川軍が竹製の盾のみの時は一手に付き300から500人を死傷させる戦果をあげますが、早急に築山・土塁を築いて防御を強化されると、鉄砲の効果は激減します。
また城内からも徳川軍に砲撃したり、17日には夜襲をしかけ戦果をあげますが、劣勢であることは否めず、
ついに、
12月18日豊臣方の使者常高院と徳川方阿茶局・本多正純が京極忠高の陣で和睦交渉に応じることとなります。
 
イメージ 2
大阪城天守閣
高さ9メートルから魚眼で撮影
 
イメージ 3
天王寺区茶臼山にある堀越神社
高さ9メートルから魚眼で撮影
 
イメージ 1
 
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