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〜大坂夏の陣:岡山口の戦いから大坂城炎上の後まで〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
真田伝説はここから始まる→幽閉の地 真田庵
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
知略謀略策略を駆使した真田昌幸→でも英雄?
NHKでは大河ドラマ「真田丸」→期待を込めて
真田幸村登場、元服するや人質→豊臣の大名へ
昌幸幸村と信幸は決別→第二次上田合戦・降伏
秀吉も真田を滅ぼしたかった→ところが北条滅亡
昌幸は伝令約も兼ね参戦→北条は徳川の生贄
つらく長い九度山での暮らし→流人の昌幸・幸村
だますなら だましてやろう 家康を→この昌幸が
謀略も真田の里を守りたいがために→昌幸の心
真田庵に訪れ、真田の哀れを詠んだ→蕪村の句
幸村の生涯に係わる出来事→戦国最後の英雄
秀次切腹から始まる真田の悲劇→もしものお話
関ヶ原の戦い〜大坂冬の陣→幸村伝説の始まり
九度山脱出から大阪城、軍議の行方→篭城作戦
淀殿・幸村VS家康・秀忠→先を読む者,読めぬ者
家康は幕府会長→幸村は素浪人 勝ち目ある?
真田丸の発想・戦術・攻防は?→前代未聞の出丸
強気の淀殿が恐れた大筒→輸送経路と性能は? 冬の陣:和睦と言う名の謀略→和睦と堀の埋立
家康は冬の陣直後に軍備増強し→幸村は手紙を
大坂の陣を勉強するのは大変です→イラストだけ
幸村はんは遅刻して後藤基次が→道明寺の戦い
このページでは豊臣氏を●色、徳川氏を●色で示し、豊臣方を〈人物名など〉・家康方を〈人物名など〉豊臣方から家康方になった時は〈人物名など〉と表示し、真田氏は●で示しています。
〜大坂夏の陣:幸村が遅刻した道明寺の戦い〜でも紹介しましたが、5月5日に徳川家康・秀忠父子が十二万余の軍を率いて京都を出陣した際、家康は自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じています。これは、「今回の戦いは冬の陣以後、大坂城の堀の大半を埋めたし、楽勝じゃ!」という家康の思いが現れた発言であると同時に、家臣に対しては、「三日以上の戦いは許さぬ」と釘を刺した発言でもありました。
そして前回ご紹介した天王寺口の戦い及び今回ご紹介する岡山口の戦いがあった7日は、5日の出陣から ちょうど3日目にあたります。
当然 徳川方諸将は、何としてもこの日のうちに攻め落としたいと奮戦しました。
特にその中でも〈松平忠直〉は隊1万5千が茶臼山へ向けて死に物狂いの突撃を敢行し、3千の赤備え武者を率い、家康本陣へ向けて決死の突撃を図った真田隊もこの〈松平忠直隊〉に阻まれ、討死を遂げた幸村を含め、最終的に挙げた首級は3千7百余といわれます。
大御所:家康の意向は、諸侯に対するのみならず、将軍:秀忠にとっても重いものです。 その事は、以下に紹介する岡山に陣取る秀忠の行動からもはっきりと見て取る事が出来ます。
【岡山口の戦い】 岡山口の徳川秀忠は、「開戦はしばらく待つように」という命令を守って待機していましたが、天王寺方面の銃声を聞き、直ちに進撃命令を出します。
(一言:将軍って、ドーンと構えていればいいんじゃないの?部下に任せて。)
しかし、軍師參謀の〈立花宗茂〉は、秀忠本軍をあまり突出させすぎては敵の突擊を誘うため、後退すべきですと秀忠に対し苦言を呈しますが、それでも急ぎ戦功を立てると秀忠は聞き入れません。
〈宗茂〉の予想通り、秀忠の進撃命令に従った〈前田利常軍〉に対し、〈大野治房軍〉がこれを引き付け、近づいてきたところをいっせいに攻撃します。当初は拮抗していた両軍でしたが、気迫が勝っていた豊臣軍は次第に徳川軍を圧倒。
加えて、天王寺口では真田幸村を敵にまわした徳川方先鋒が崩れたため、この岡山口の徳川方二番手〈井伊・藤堂勢〉が救援に向かいます。
(一言:なぜなら、天王寺口には、大御所:家康の本陣があり、何を差し置いても死守しなければなりませんからね。)
徳川方の二番手が抜けた穴を突いて〈大野隊〉は〈前田軍〉を突破、見る見るうちに秀忠本陣を急襲します。〈大野治房〉は隊を割り、一部を迂回させ遂に秀忠の本陣に突入させます。
これを阻止しようと〈酒井忠世〉と旗本先手の〈土井利勝〉の隊が立ちふさがりますが、あっという間に蹴散らされ、〈大野軍〉は本陣に迫りますが、〈黒田長政・加藤嘉明勢〉が秀忠の周囲を固めていたため秀忠本軍は大混乱となり、秀忠近臣達の命令は錯綜します。
(一言:ようするに、「大御所が危ない、直ちに救援するのだ!いや将軍本陣の方が危ない、お救いするのだ。戻って来い。」「えーっ、どっちやねん。」なんてな具合に混乱したのでしょうか。)
このかつて無い窮地に秀忠は、自ら槍をとって戦おうとします。
(一言:おバカですね、秀忠って槍の名手なの?弱いなら家臣の陰で隠れていなさい。ちゅうの。いらん事して王将があっさり首取られたらシャレにならんでしょ。)
これには側近の〈安藤重信〉も驚いて、何とか抑えるほどで、そこをすかさず〈本多正信〉が「大局的に見れば味方は勝っており、将軍自ら手を下す必要はありません。」といさめたといいます。 この時の混乱は、後に徳川軍の兵士達が「かかれ対馬〈安藤重信〉、逃げ大炊〈土井利勝〉、どっちつかずの雅楽頭〈酒井忠世〉」と馬鹿にしたほどだったとか。
(一言:この戯れ歌は、〈安藤重信〉はあっさりやられて逃げ、〈土井利勝〉は粘り、〈酒井忠世〉は出陣すらしなかったから、「〈安藤重信〉もっと頑張ってかかれ、〈土井利勝〉危ないぞ早く逃げろ、〈酒井忠世〉出陣もせず将軍を抑えているだけ」と茶化しているのかな?)
徳川軍の劣勢からやや回復し、家臣が集まってきたのを見て、ずっと秀忠の傍らにいた〈井伊直孝〉も、諸隊の中心となり反撃に出ます。こちらは後退することなく力押しで持ち堪え、再度天王寺口の援軍より戻った〈井伊直孝勢〉などの援軍もあり〈大野軍〉を撃退します。
この戦いで劣勢に立っていた徳川方が大勢を立て直せた一因には、自ら槍を持ち、勇み立つ秀忠の姿が前戦の諸侯にも伝わり、諸隊が勇戦に励んだからだともいわれます。
(一言:秀忠はお世辞にも有能な指揮官とは言えませんが、人に好かれるタイプなんですね。)
軍師〈宗茂〉の支持に従って旗奉行〈三枝昌吉〉が旗を立て敵に向かって進むと、散っていた兵が集結しますが、軍師である〈立花宗茂〉の当初の進言もあって秀忠はこのとき本軍を後退させる気でした。
ところが今度は逆に〈宗茂〉が、敵は疲労でもはや攻撃できず、軍を後退すると士気低下につながりますと進言します。
(一言:〈宗茂〉はんたら、将軍の思いとは逆のことばっかり言って。いや、それほど秀忠の指揮官としての才能が無いってことかな?)
軍師の意に沿い、勇猛な〈土井利勝〉は兵を励まし、その集結した兵を反撃に転じさせるた結果、戦況は〈大野隊〉優勢から大混戦となり、敵と味方の区別がつかなくなります。 そこで徳川軍の〈阿部正次〉は「味方は遠いところから来たので日焼けして鎧なども汚れて汚い。敵は日に焼けてなく鎧もきれいだ。これを目印にしろ」と指示したとか。(一言:ほんとかなーっ。) 尚も奮戦する〈大野隊〉でしたが、岡山の下に残っていた隊が〈前田隊〉に押され始め、耐え切れなくなっていました。しかたなく〈大野治房〉は撤退を決め、軍を収集して大坂城への撤退を開始します。
(一言:もはや進むも地獄、退くも地獄です。)
【徳川軍の追撃】
徳川軍はこれを追撃し城に迫ろうとします。これに対して(大野治房)は稲荷祠のあたりで敵を迎え撃ち、槍ぶすまを作り追撃を一時阻止します。しかし大軍を擁する徳川軍の進撃は止まらず、さらに(大野隊)に迫ってきました。そこで豊臣軍の(北村五郎)は、弾薬箱を外に置き、味方が大坂城に入るのを確認すると、火矢を放って弾薬を爆発させました。これにより徳川軍は多数の被害を出ますが、大坂城内に追い詰められた時点で、もはや豊臣方にわずかの勝機すらなく、万事休すです。
この5月7日の天王寺口の戦いと岡山口の戦いは、激烈を極めた大戦(おおいくさ)でしたが、それらの戦いそのものは、時間にするとわずか3時間の出来事でした。
この間、〈毛利勝永・真田幸村〉の後詰であるはづの〈大野治長・七手組〉は〈秀頼〉の出馬を待っていましが、〈淀殿〉の説得に手間取り出馬した頃には徳川本陣に突撃した〈真田幸村・大野治房〉の両隊はすでに撃退されていました。その後、混乱状態から回復し体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力に押され、孤立した上に後詰もなく、疲労の極にあった豊臣勢は午後三時頃には壊滅、唯一戦線を維持していた毛利勝永が指揮を執ると共に殿(しんがり)を務め同じく城内に総退却します。
【乱入と落城】
5月7日午後4時、天王寺と岡山の両方で豊臣軍が敗北したため、徳川方は城へ向かう敗残兵を追って遂に城内に乱入し三の丸に迫ります。
この時家康は茶臼山、秀忠は岡山へと本陣を進めます。そして、これに合わせるかのように大坂城内から火の手が上がった。大坂城の東北に陣を敷いていた徳川方の〈京極忠高・石川忠総ら〉は豊臣軍の敗北を知って備前島へ進撃し、天満方面に陣を敷いていた〈池田利隆〉も同じく進撃を開始します。豊臣秀頼は敗北を知って、出馬して戦死しようとしますが、〈速水守久〉に止められ出馬を取り止めます。その後、大坂城内で台所頭を務めていた大角与左衛門(この後の消息不明)という侍が徳川方に通じており、御殿の大台所に火をつけると、火の延焼は、とうとう千畳敷にもいられなくなった秀頼らは天守閣に入って自害しようとしますが、近臣らに諫められて山里曲輪の隅櫓に逃げ込んだ。糒庫(ほしいくら)と呼ばれているところです。
この火の手を見た徳川軍は城内に殺到。豊臣軍の兵達は次々と逃げ出し大坂城は徳川軍の手に落ちます。 この頃、豊臣方の最後の望みとして秀頼の妻・〈千姫〉が岡山の秀忠本陣に送り届けられます。〈千姫〉は秀忠の娘、家康には孫娘であり、〈大野治長〉はこの千姫を通して自らの切腹と引き換えに〈淀殿〉・秀頼母子の助命を嘆願しますが、これは黙殺されます。
家康はこの処置を将軍である秀忠に一任し、秀忠は助命を認めなかったのです。
(一言:家康に限らず、信長・秀吉などほぼ例外なく戦勝した者は、敗者の大将に連なる一族郎党を根絶やしにしてしまいます。でなければ勝者の未来は約束されないのでしょうか?本当に?確かに敵将の血筋を残せば、これを御輿に担いで反旗をひるがえす者たちが現れ後世に禍根をのこすことにもなるかもしれません。しかし、皆殺しにしたところで、結果は同じだと私は思います。悲しいことです。
それと、先の記述で秀忠は人に好かれるタイプかもと言いましたが、撤回します。〈千姫〉の助命嘆願を許さなかった秀忠もまたチビ家康だったのです。)
午後4時頃には本丸も炎上し、戦闘は終了。大坂城は落城します。 翌5月8日
前日からの猛火によって朝には、大坂城は無残な姿となります。
糒庫で長い夜を過ごした〈淀殿・秀頼〉母子や近臣らは〈千姫〉に託した助命嘆願を希望に潜んでいましたが、正午頃に〈〈片桐且元〉〉の案内を受けた井伊直孝・安藤重信隊が、糒庫を目がけて一斉射撃を行ったところ、間もなく糒庫から火の手があがります。 (一言:〈〈片桐且元〉〉と言えば、家康が言いがかりをつけ、この大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件から家康との内通を疑われ、助命されたその人です。それまで豊臣に忠節を尽くしたにもかかわらず、追放されとき、〈〈且元〉〉は家康に救いを求め、家康は厚遇をもって迎え入れます。もちろん家康にはこの戦いで利用できることを計算していたことは言うまでもありません。この大坂城の落城後、〈大野治長〉が秀頼や〈淀殿〉が山里丸にいる事を、彼らの助命嘆願の依頼と共に〈〈且元〉〉に知らせてきたので秀忠に通報します。そして豊臣秀頼らは、上記したように助命叶わず滅亡します。
(一言:片桐はん、勤め上げた職場を追放された無念は分かるけど、そもそもその原因をでっち上げたのは家康なんだから・・・それをこんな形で返すなんて・・・、)
この銃声によって一縷の望みを断たれたことを悟った秀頼と〈淀殿〉は自害し、〈大野治長・毛利勝永・真田大助ら〉近臣らも火薬に火をかけて殉じたのです。
秀頼、享年23歳。淀殿、享年46歳。大野治長、享年47歳。真田大助、享年13歳or16歳。毛利勝永、享年38歳でした。
【豊臣の血筋 その後】
秀頼と〈千姫〉との間には子はいませんでしたが、側室との間に8歳の男子と7歳の女子がいました。この2人は落城に際して脱出を果たして京都に逃れていましたが、やがて見つけ出されます。
男子は〈国松〉といい、5月23日に京都六条河原で斬首されます。女子は千姫の妹分として鎌倉の尼寺・東慶寺に入れられて天秀尼と称したが、生涯を独身で通したため、秀吉の血筋は絶えます。 栄華を誇った豊臣氏はわずか2代であっけなく滅亡です。大坂夏の陣 - Biglobeより 【毛利勝永とその血筋 その後】
5月8日、〈毛利勝永〉の最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である〈毛利勝家〉、弟の〈山内勘解由吉近〉と共に蘆田矢倉で静かに腹切って自害したそうです。戦後、徳川家康は、土佐の〈山内忠義〉に城内に留め置かれていた3名を京へ護送するように命じ、10歳の〈太郎兵衛〉は斬首されます。
【片桐且元とその血筋 その後】
〈〈且元〉〉は、この戦いの前年より肺病を患っており、大坂夏の陣から20日ほど後の5月28日に京屋敷にて、突如60歳で死を遂げています。 殉死したとの説もあるが、定かではない。死後、嫡男の孝利が跡を継ぎますが、孫の〈片桐為次〉が15歳で亡くなったため無嗣断絶(むしだんぜつ)となります。
【大野3兄弟とその血筋 その後】
大野治長は、
大坂夏の陣では将軍・徳川秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害します。享年47歳。
大野治房は、
大坂夏の陣後、秀頼の遺児・豊臣国松を擁して大坂城から脱出しようとしたが、徳川方に捕らわれて斬首されます。享年不詳
大野 治胤(おおの はるたね)は 大坂夏の陣では、手勢を率いて堺を焼き討ちした。夏の陣後、大坂城から脱出を図ったが、徳川方に捕らえられた。彼に焼き討ちされた堺衆は、南都焼き討ちを行った平重衡(たいらのしげひら:平清盛の子で、源頼政らを宇治に倒して南都の東大寺・興福寺を焼く威勢を見せますが、一 ノ谷の戦いで敗れて捕らえられ、南都の衆徒の要求で奈良に送還,木津川で斬首されました。)の例を挙げて〈治胤〉を引き渡すことを板倉勝重に求めたため、堺衆に引き渡されました。その結果〈治胤〉は堺衆によって磔(はりつけ)にされ、火あぶりの刑に処せられます。 板倉勝重はこのやり方に不満を持ち、堺衆に「南都の者たちは重衡を磔(はりつけ)にかけたであろうか」と問うたといいます。つまり 勝重は、生きたまま火あぶりとはあまりに残酷だと言ったのです。
(一言:治胤はんの行いはいただけません。ですが、それを火あぶりという形で行った堺衆、その怒りもわからなくもないですが、板倉勝重はんの心情も至極当然ですね。人はこんなにも残酷になりうるのです。悲しいかな。)
【明石全登 その後】
天王寺・岡山の戦いで、天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると〈松平忠直〉の軍勢に突撃し姿を消します。その後の消息は不明で、戦死したとも南蛮に逃亡したとも言われており、死亡時期については諸説あります。
【福島正守とその血筋 その後】
福島正守は安芸国備後国の大名の福島正則の子、甥、弟などさまざまな説がある。
大坂冬の陣では、正鎮と共に誉田の戦い、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いの最終決戦では、茶臼山西部隊2500人の一員として、徳川勢と戦いを繰り広げました。大坂の陣の後は戦線離脱に成功したのか、その後の消息は不明。子孫は現存します。
【福島正鎮(ふくしま まさしげ】
福島正鎮は福島正則の弟である福島長則が父です。正鎮はその三男。
大坂夏の陣での最終決戦には茶臼山陣西に布陣し、関東勢と戦いました(私のブログでは登場しませんでしたが)。その後は戦線離脱に成功したのか〈正守〉ともども消息は不明です。
【長宗我部盛親とその血筋 その後】
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、天王寺・岡山の戦いにおいて大坂方の敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡します。
ですが運は盛親に味方せず、5月11日に京都八幡近くの男山に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられます。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられさらし者にされます。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原にさらされます。享年41歳。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。
(一言:斬首される前にさらされ、斬首されて後に家族ともどもさらされます。なぜ盛親だけがここまでの仕打ちをうけたのでしょう?逃亡したから?武士にあるまじき?ということでしょうか。)
桜門枡形巨石と大坂城本丸
高さ9メートルから魚眼で撮影 |
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秀忠は人生たった二度目の戦。
関ヶ原の失敗もあり、判断が甘かったりするのも当然の事。
あと助命嘆願を無視した事を悪く書いてますが、豊臣の血筋はそれだけ重いということです。
娘に嘆願されたからといって助命したら、それこそ小人物です。
っていうか禍根がなくなるって事は結果がぜんぜん変わってくるでしょ。結果は同じにならない。
2016/5/5(木) 午前 4:13 [ aib*3m*t*noku ]
> aib*3m*t*nokuさん
秀忠がお好きなのですね。
戦国時代のことですから強者が敗者を根絶するということは普通なのでしょう。
ただ、平和な現代の感覚ではそう思えるということです。
ただ秀忠は、家康の後継者としては余りに凡庸な将だったと思えます。地位の力を己の力と勘違いして功名心に走る傾向が強かったと。
2016/5/5(木) 午前 6:36 [ 上から目線 ]