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〜長宗我部の血筋を残した島五郎左衛門〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
幸村の父:昌幸が憧れた 長兄:信綱 関ヶ原の戦いから大坂の陣に至る話
大河ドラマ『真田丸』期待してるけど 冬の陣後家康は 和睦と言う名の謀略
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
昌幸の生涯から垣間見る昌幸の思い
真田親子の哀れを詠んだ蕪村の句碑
幸村の生涯と関連事を示す幸村年表
今回は現代の長宗我部氏の子孫、長宗我部友親(ちょうそがべ・ともちか)さんのブログから、お話を進めます。
友親さんの自己紹介によると、親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。のだそうです。
彼のブログの名は、【そらとぶ庭】といいますが、その数あるページの中から私が取り上げたのは、
その記述によると、
長宗我部家は、狂気の戦国世界から、安定政権となった幕藩体制への、流れのなかで崩壊していった、いや崩壊させられた家系だそうです。
ここに言う幕府とは、徳川幕府なのですが、
戦いに負けて国を取り上げられたのだから、資産など何も残るはずがないのである。いや、残っていては命が危ないのだと。 だから、何も残せない。物どころか、名前、出自さえも。それでなくとも、斬首や、切腹は枚挙にいとまがない。 (一言:豊臣家が滅び、、うわべ上は太平の世となったかに見えるが、幕藩体制の下で、これを維持するためにの常に処断する口実を探して諸藩を見張り、隙あらば藩主や藩士の斬首や、切腹が日常的に行われていた。それが江戸時代でした。)
長宗我部家系は、秦の始皇帝から始まってはいるが、きちっと残されているのは、秦河勝の末裔の能俊から始まって、その二十一代が中興の祖、長宗我部元親である。この元親は、京都の土佐屋敷で病死、つまり畳の上で亡くなっているが、(一言:例外的な幸運によって)
その後は、元親の二代目の盛親は二条城の前にさらされた後、京都の六条河原で斬首されている。また、大阪の陣の後では、九州の加藤家で庇護されていた盛親の弟、右近太夫が京都に呼び出されて、切腹させられている。
また、盛親は自分の兄を、攻めて切腹させているのだと。
(一言:この出来事については、前回のブログで、「関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、家臣の久武親直(ひさたけ ちかなお)は主戦論を抑えて盛親に徳川家康への恭順を勧めますが、同時に「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言(ざんげん)したために盛親は兄である三男:津野親忠を殺害してしまいます。」とご紹介しています。この後盛親は豊臣方として参戦します。ひょっとすると盛親は、「家康への恭順を考えたがために弟を殺めた。」とおのれを悔い、豊臣方についたのかもです。)
このように、歴史を追っていくと、悲惨な話ばかり出てくるが、そのように家が没落して家系が壊れて消えようとしているとき、そのながく守ってきた自家の歴史を消すまいとするエネルギー、あるいは思いも、強く働くのだと。
(一言:これって真田昌幸・幸村の思いと同じではないですか。)
家系のみを残すためだけに、「無」の世界に入り、じっと耐えながら、「血脈を残す」この一点、のみに生きることを決めた先祖がいたのだと。 その無念の心を、思ったとき、没落した栄華が消え去り、身分も、格式も、ましてや経済価値も何もなくなった後の家の流れを一度検証し、長宗我部家という没落家系がどういきてきたか、可能な限りみてみようと思った。 そうすることで人の生き様や、値打ちなども、少しずつ透けて見えてくるし、人情というか、人の厚き心がよく見え、逆に、ずるがしこい策謀も浮き彫りになってくる様な気がするのだと。 その信念の人は島長宗我部家に入っている二代目の「五郎左衛門」。この人ははっきりいって、謎だらけで、その名前さえほんとうに「五郎左右衛門」なのかどうか、後からつけた偽名であるかも知れない疑問符がつく。長宗我部親房、別名 島弥九郎親房の子供となっているが、嫡子とするには親房の死亡時期からいって、第一年齢が合わない。「島五郎左衛門」この名前は、正史にはどこにも出てこないのだと。
だが、五郎左衛門が大坂の陣、冬夏ともに出陣し、地獄を見たのは事実であろう。特に、瞼の裏に焼きついて離れないのは、元和元年(1615年)の大坂夏の陣。 これは、「徳川家康に仕掛けられた陰謀である」、五郎左衛門は、瞬間そう思った。長宗我部家の当主盛親の軍と、藤堂高虎の軍が、激突させられてしまったのである。藤堂軍の指揮者は、長宗我部家の功労者である家老桑名弥次兵衛である。そして、その主力部隊の多くも、藤堂家に再雇用されたかっての長宗我部の家臣たちである。つまり、この戦は、長宗我部の部隊同士の戦いとなってしまっているのであるのだと。 見方を変えれば、長宗我部の残された力を消耗させるために、仕組まれたものといえる。家康の明らかな陰謀なのだと。
(一言:私は戦国の覇者の中で最も罪深い者が家康だと思っています。第六天魔王の異名を持つ織田信長よりもです。骨肉の争いをあえて仕組み、謀略の限りを尽くしながら、自らは神格化して東照大権現と称して悪行を包み隠した家康を。)
長宗我部家の功労者桑名弥次兵衛は、もう戦う気力をなくして、馬上で盛親の軍の槍に八方から串刺しにされて果てた。盛親自身もこの戦には勝ったものの、勝利感は全く無い。その後の戦闘を、盛親は放棄した。五郎左衛門は、このさまを呆然と見ていて、重傷を負ってしまったのだと。 (一言:盛親が徳川方についていれば、こんな事にはならなかった?いいえ、恐らく別の形で長宗我部一族は消される運命だったでしょう。)
五郎左衛門は、身を捨てて、入牢五年の生活の後、長宗我部の一族ながら馬にも乗れない御歩行組に入る。そして、負傷して「体健やかならず」(差出書)だが、懸命に山内家の御歩行組の仕事を、四十三年間務めるのである。しかも、長宗我部の名は公には使えない。
(一言:長宗我部の名を使えば即、謀反の疑い有りとして断罪されたでしょう。徳川方についた幸村の兄:信幸も、徳川の世になって後、信幸から信之へと改名しています。『幸』は真田家に代々使われた文字だから。)
わずかに使えたのは傍系の、島。ただ、差出書によると、この間、五郎左衛門は、山内家の御銀方(藩の財政を担う所)、お台所方などの重要な、仕事に身分の低い形でついている。
このあたりに五郎左衛門の正体の一端が垣間見え、山内家の藩主:忠義にはこの五郎左衛門の正体は分かっていたが、それを公にはできない理由があった。それで無ければ御歩行組の者に、城主が手紙を出すことはありえないし、単なる長宗我部の家臣の生き残りというだけでは「お台所方」としては、危険すぎて使えないはず。 五郎左衛門と忠義の間には、何らかの心の交流があったということであろと。 山内藩の重要な仕事を任せられながら、表向きはあくまでも馬にも乗れない御歩行組。城内では、山内の家臣らに土下座せねばならない。それでも五郎左衛門が生き続けたのはなぜなのか。長宗我部の血脈を残すため以外に何があるのだろうかと。 (一言:本当に藩主と歩行組の者との間に心の交流があったのなら、息を潜めて血筋存続のために生きた五郎左衛門にとって、せめてもの幸せだったことでしょう。
大坂城桜門の鬼瓦
島五郎左衛門は豊臣家の家紋をどんな思いでみていたのでしょう?長宗我部盛親と、
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