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〜ほんとにホント?大坂冬の陣での真田信吉の働き〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
幸村の父:昌幸が憧れた 長兄:信綱 関ヶ原の戦いから大坂の陣に至る話
大河ドラマ『真田丸』期待してるけど 冬の陣後家康は 和睦と言う名の謀略
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
真田親子の哀れを詠んだ蕪村の句碑
幸村の生涯と関連事を示す幸村年表
逆賊として不遇の最後を遂げた長宗我部盛親とその血筋を2ページに渡って紹介しましたが、
こうなれば、当然本題の真田の血筋をご紹介しなければなりませんね。
そこで今回から徳川方の真田の血筋についてご紹介したいと思います。
今回は真田信吉をご紹介します。信吉は幸村の兄:信之の嫡子です。
真田信吉/戦国Xファイルによると、
真田信吉(1593―1634)
孫六郎、従五位下河内守。真田信之の嫡男。母は本多忠勝の娘というのが通説で、異腹説もあるとか(Wikipediaでは真田信綱の娘)。
(一言:信之と真田信綱の娘との間に生まれたのが信吉だとしたら、ひどく近親同士の子ですね。)
父:信之が上田城に移った後、沼田城主となる。1614年、大坂冬の陣に従軍。翌年の夏の陣でも戦功をあげる。寛永11年11月28日(1634年)に疱瘡(ほうそう)を患い、父に先立って40歳で没し、上州利根郡の天桂禅寺に葬られます。正室は酒井忠世の娘。
注釈:世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある。 その大きな感染力、高い致死率(諸説 あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。 疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。
真田幸村は、大坂冬の陣で「真田丸」を築いて徳川方を迎撃し、多数の被害を与え、武名をあげますが、戦い自体は講和となります。
和睦交渉の間、徳川家康の側近本田正純の傍らにいた真田信尹が、真田丸を訪れて幸村に面会、家康への寝返りを勧めます。
最初は信濃の中より1万石の条件を出したところ、断られたので、信濃1国10万石の条件を再び提示したとも言われ、10万石なら飛びつくであろうと思っていた家康の思惑を、幸村は「1万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか?」とあっさりと断ったと言われます。
(一言:幸村アッパレ!ついでに家康に「10万石よりその首ちょうだい。」って言ったらよかったのに。)
なお、大坂冬の陣に本家真田信之は、病気のため出陣していません。
(一言:本当に信之は病気だったのでしょうか?私は方便の嘘だったと思うのです。もしくは、予想出来た豊臣征伐の前に、病になるよう努力したと。飛躍しすぎた考えですかね?でも、稀代の策士昌幸の息子:信之ならありえるでしょ。ちなみに、信幸が信之と改名して家康に対する忠誠を示したのは、この大坂の陣の前だそうです。)
そのため小松姫が実家に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
結果、嫡男である河内守信吉22歳、内記信政18歳が真田軍団を率いて上方へ向かいます。
真田信吉/戦国Xファイルよると、この時生母大蓮院(小松姫:、本多忠勝の娘で、徳川家康の養女となり、に真田信之に嫁ぐ)は、「兄と弟、ふたりもいるのだから、ひとりくらい討死して忠節を尽せばよいものを」とひどい言われ方をしたとか。
ところが真田信吉 - Rokumonsen.comによると、信吉と弟の信政は、母:小松姫の弟である本多忠朝隊に入り、小松姫は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけたといいます。
(一言:真田信吉/戦国Xファイルと真田信吉 - Rokumonsen.comの記述、どちらも本当かもしれませんね。戦場に出向く我が子には冷たく、従者にはくれぐれも・・・と。それとも、実子:信政だけが心配?)
信吉・信政兄弟は大坂冬の陣の際、大坂城のやや東北の方向にある鴫野村付近または大坂城北方の備前島に陣を置いたと言われています。冬の陣は約2000人を率いました。
兄弟の初陣にしては、周囲の風当たりは強かった。何しろ大坂城には叔父:真田幸村が籠城しているのですから。
そして11月26日には鴫野・今福の戦いがありました。この時、真田兄弟は後方で待機していたようで、戦闘後に戦闘した佐竹義宣隊と配置転換をしています。
徳川家康は大坂の陣に際し、大丈夫と強がってはいましたが、大坂城に六文銭の旗が翻りはじめると、「河内め〜」と信吉が内応(味方を裏切ってひそかに敵と通じること。)したものと早とちりしたとか。
(一言:家康ってどこまでチキンなんでしょうね。それだけ過去に昌幸が家康に怖い思いをさせたということでしょうが。)
この時、井伊直孝(24歳)が進み出て、信吉を弁護します。
直孝 「河内守は敵方に内応するような者ではござりません」
家康 「フン。河内守の心情などがそのほうになぜわかるのか?」 直孝 「河内守とそれがしとは衆道の契りを結んでおりますから」 (一言:衆道のちぎりとは、男性同士が性的行為を行うこと。だそうですが、これこそホンマかいな?ですよね。)
理由もすごいと思いますが、結局、井伊直孝の言うとおり、信吉の身辺に怪しい動きはなく、城方の旗も真田幸村の隊のものであることが判明します。(真田信吉/戦国Xファイルより) また、信吉・信政の参陣を知った幸村は、この後冬の陣・夏の陣を通じて真田の代名詞でもある六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使い、甥に気を使ったと言われます。
大坂冬の陣の際、木村重成の陣へと六文銭の旗印を立てた軍勢が攻めかかります。
(一言:木村重成は以前ご紹介したように、後の夏の陣で出陣する前に入浴して身を清め、兜に香を炊き込めて、首を討ち取られる覚悟で望んだ武将です。)
軍勢を確認した木村重成が同じ六文銭が旗印の幸村に会って、
「私の持ち場に攻め寄せてきた徳川勢の旗の紋は六文銭です。その中で若い武者二騎が真っ先に進んできて弓や鉄炮をものともせず、兜を傾けて柵に取り付いていますがどなたの子でしょうか。 」
と言ったところ、
幸村は、六文銭は兄:信之のもの。若武者は兄の長男:信吉と次男:信政である事を告げ、
「彼らを討ち取るよう配下に命じて下さい。そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません。」と答えます。
(一言:武士って大変ですね。心にもないことを言わなければ面目が立たないなんて。)
しかし木村重成は、
「一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。必ず和睦になりますから、めでたくご対面なさって下さい。 」と
幸村の心中を察して、信吉と信政を鉄砲で狙撃しないように兵に命じます。
(一言:木村重成は更にアッパレ!でもこの命に何人の配下が従ったのでしょうか?)
この時大坂城内では、真田信吉・信政の兄弟が若いのを侮って「陣地は隙だらけだろう。ひとつ夜討ちをかけてやろうか」と計画をたてる者たちがいたそうで、この者たちに対して幸村は、
よしたほうがようござるぞ、とニヤニヤ笑いながら忠告。
「今度の陣にわが兄伊豆守が出陣していないということは、家中のいくさ功者を揃えて若輩どもを助けているに相違ござらん。この老人たちは小競り合い、夜討ちには物馴れしている者たちです。また、若い者は雪が二丈も積もる北信濃に生まれ育ち、雪どけ水や氷の上も平地を行くがごとく歩行し、山に入って鹿や雉を狩って過ごしております。その上、伊賀甲賀者に百倍するほどの窃盗自慢の悪たれ揃い。敵の夜討ちはまだか、と手ぐすねひいて待っておるやもしれませぬぞ」と。
(一言:ほんとに幸村ってこんなに口数の多い人だったのでしょうか?)
幸村の言葉は脅しの意味も多少含まれていたかもしれませんが、半分は当っていました。この時、寄せ手の真田隊には昌幸時代からの老功の士、矢沢但馬、木村土佐、半田筑後、大熊伯耆らが信吉・信政兄弟を補佐していたのです
戦後、信吉、信政、真田家臣とも会見します。池波正太郎の『真田太平記』でも冬の陣講和直後、信吉・信政兄弟の陣所へ幸村が訪ねるシーンが非常に気持のよい場面として描かれていますが、『翁物語』が記す叔父甥会見の様子はすこし違うそうです。
叔父とは言え、幸村は身分は高野山に流罪となった浪人者。かりにも信政は真田家の惣領((そうりょう:跡取り、家督相続予定者のこと。)ですが、幸村は叔父の立場で上座にどっかと座ったという。以下は幸村の信吉評です。
御辺四才の時対面して後、今夜初めて也。思いのほか成人となり、
器量骨柄世に越えて覚えたり。伊豆守殿も年寄たまう共気遣いなし。
(意味:おぬしに会ったのは4歳の時以来、今夜が初めてじゃ。知らぬ間に立派になって、
顔立ちも体つきも稀に見る美形じゃ、兄上も年老いても もう何の心配もないじゃろうて。)
(一言:だから井伊直孝と信吉は衆道の契りを?・・・・ですかね。)
この後、信之に会いたいなあと思いを述べると、信吉が弟内記信政を紹介しても幸村は会釈するだけで、とうとう信吉としか話さなかったとか。
(一言:孫六郎信吉は長男ながら父が正室・小松(本多忠勝の娘)に遠慮して徳川家の手前、嫡男となれなかった。家督を継いだのは、幸村が一言も言葉を交わさなかった次男の信政、生意気で家康ゆかりの信政には言葉を交わす気にもなれなかたのでしょう。一人のけ者の信政にとってこの会見は、針の
むしろだったでしょうね。)
稀代の戦術家である幸村と信吉の間でかわされた言葉は、
信吉 「今度は思いきったところに砦(真田丸)を築かれましたね」
幸村 「天下の兵が相手ですから尋常な手段では勝てませぬゆえ」 信吉 「和睦にならなければ、寄せ手によってとりひしがれてしまったことでしょう。ご無事で何よりでし た」 (一言:和睦にならなければ、信吉は一人で真田丸を落としていたと言いたいのですね。)
幸村「ハハハ。あの砦をとりひしぐ? それは、ちと骨でしょうな」 (一言:幸村は、そんな訳ないじゃろが、この若造が!と言っているのですね。)
小説とは異なる緊張感みなぎる会見の後、幸村旧知の真田家臣たちを呼び出して、宴会になったといいます。
(真田信吉/戦国Xファイルより)
そしてこの時幸村は、上田の里に住む姉に宛てた手紙を託します。
天王寺動物園前の広場
平和な光景ですが、この下は古戦場なんですね。
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