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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜大坂夏の陣での真田信吉の働きとその後
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編  
        
  
●真田氏に関するページ●              
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幸村の生涯と関連事を示す幸村年表                         
 
続く大坂夏の陣で真田兄弟は、河内第二番手右備に属します。天王寺・岡山の戦いでは天王寺口先鋒の右翼を務めて奮戦するが毛利勝永に苦戦。さらに浅井長房・竹田永翁の攻撃を受けて、本多勢に続いて戦線から離脱します。
1615年5月6日の前哨戦の後、
5月7日、正午になって豊臣方の毛利勝永隊と徳川方の本多隊が突発的に大坂夏の陣を開戦、本多隊は壊滅状態となり、真田信吉信政兄弟もその渦中にありました。
しかしそこに徳川方の援軍:小笠原秀政隊が割り込んできて大混乱となります。
それでも本多隊の劣勢は解消できず、大将の本多忠朝が討たれ本多隊は壊走します。
その頃、毛利隊の右の部隊は秋田実季・浅野長重隊らを撃破し、左の部隊は本隊と共に真田兄弟隊に猛攻撃をかけます。真田兄弟は奮戦したものの、戦況を変えることは出来ませんでした。
この時に真田の家臣・森佐野衛門信吉の身代わりになって銃弾を受けるというほどの苦戦を強いられています。
そんな真田兄弟隊にとっては苦い初陣でしたが、原郷左衛門/戦国Xファイルには以下のような記述があります。
大坂の陣では、寄せ手の陣中でタバコが流行します。冬の陣で味を覚えたのか若手の大将真田信吉もタバコ好きだったとか。
真田信吉の軍勢は翌年の夏の陣でも奮戦します。その中に原郷左衛門という暴れ者がいました。
1581年に真田昌幸によって討伐された海野一族の生き残りです。家老矢沢薩摩にとっても孫にあたる人物でしたが、行跡荒々しく、親類縁者には愛想をつかされ、信之からも声をかけられない嫌われ者でした。
このが、五月七日の決戦において先手の備えが崩れてかけているのを信吉に伝え、信吉はすぐさまに出撃を指示します。その時、本陣の徒士(かち:歩兵)が持っていたきせるタバコにの目がとまります。「おい。そいつを一服吸わせろ」とが声をかけますが、「だめだ。これは殿さまのタバコ」とすげない返事。このやりとりを信吉も傍らで聞いていました。、
 信吉   「かまわぬ。郷左衛門にこのタバコを吸わせてやれ」
郷左衛門 「そうこなくっちゃ! 殿さま、あんた話がわかるねえ」
原郷左衛門は感激して、煙管(きせる)をふかしてほんの半服ほど吸った後、鎧の袖でゴシゴシと吸い口をぬぐって信吉に返します。その時の郷左衛門の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちていたとか。やがて、郷左衛門は颯爽(さっそう)と馬に打ちまたがり、戦場へ駈け入ります。
この時 乱戦の模様を眺めていた家老の矢沢薩摩は敵の攻勢を避けるべく、「郷左衛門、わしについて後退せよ」と指示したが、郷左衛門は首をふった。「座敷では叔父上、家老どのと呼びもするが、戦場では聞きたくもなし」とうそぶき、真っ直ぐに馬を駈け入れ、奮戦の末、討死します。「真田家武略記」は「真田家之侍討死手負の覚」として、沼田衆・原郷左衛門の名を載せています
一言これは信吉の武勇伝というよりは、原郷左衛門の武勇伝ですが、その荒武者に覚悟を与えたのは、誰あろう信吉だったのですね。)
 
 
信吉は、夏の陣では約2300人を率います。
一言前回紹介したように冬の陣では約2000人を率いたといいますから、300人増えましたね。)
真田兄弟は天王寺口の右翼の先鋒になりましたが、叔父:信繁(幸村)は左翼との戦闘になったので、親戚対決は回避されます。真田兄弟は毛利勝永・竹田永翁(たけだえいおう)らの隊と激戦になり、25〜29名を討ち取り、35〜39名の戦死者を出したといいます。
一言戦としては敗戦なのに敵見方の使者で言えば、マイナス10人前後、戦死の確立で言うと50分の1以下なら、優秀な初陣の戦績ではないでしょうか。)
真田信吉 - Rokumonsen.comはコメントとして、「叔父:信繁(幸村)豊臣方の中核として真田丸などで活躍したことと、真田兄弟徳川方内で比較され肩身の狭い思いをした可能性があります。豊臣方である叔父:
信繁(幸村)真田兄弟信之が内通しているのではないかという疑念が徳川方内からありました。成果を上げる事に焦り、自分達家の疑惑を晴らすためにも、死体の首を切って手柄に入れるようなことをせずに、犠牲者の比率が多くても正直に報告したものだと思われます。」と書き加えています。
 
【大坂の陣以後の信吉と家族
1616年(大坂夏の陣の翌年)
父:信之は居城を沼田から上田に移し、沼田を信吉に任せました。(信吉24才)
Rokumonsen.com一言これは祖父:昌幸が自らを上田城主とし信之を沼田城主にしたことを、信之が手本にしたものと思われます。)
1616年4月17日、
義理の祖父である徳川家康が駿府城で逝去しました。(徳川家康 享年75才)
1617年3月、
父:信之は居城を沼田から上田に移したため、沼田城は信之の嫡子である信吉が城主になります。
1617年
父:信之が病気を患った体をおして将軍秀忠の上洛に随行しました。
一言この時、信吉も同行したのでしょう。)
1632年5月、
信吉は正室である松仙院との間に、真田熊之助をもうけました。(信吉40歳)
1634年11月28日、
信吉が江戸屋敷で亡くなりました。(信吉享年42歳)
信吉の遺骸は沼田へ送られ、迦葉山で火葬されのち、群馬県沼田市の天桂寺に葬られ、現在もその墓があります。
信吉の後を長男:熊之助が沼田藩主を継ぎます。(熊之助3歳)
一言いかにも幼い藩主ですね。)
1638年11月6日、
熊之助が亡くなります。(熊之助享年7才)
真田氏と血縁関係が無くなったこともあってか、その後信吉の正室松仙院は実家である酒井氏に戻ります。
当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、
松代藩の分領(分地)でした。
熊之助が幼くして没し、次男の信利が家督を継ぎます。
当時は信利も兵吉を名乗る3歳児だったため、信利の叔父に当たる真田信政真田信之の次男)が相続します。信利には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与されます。
1656年
祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、叔父:信政は本家松代藩を相続し、沼田領は信利が領有します。
1658年2月
ところが、信政は2年後に死去し、松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出ます。
一言再び真田一族に『』の文字を使うようになったんですね。家康は愚か1632年に徳川秀忠死去していますので、今更真田の謀反を恐れる者もなく、問題はなかったのでしょう。
その時、信利信之の長子信吉の子であることを理由に「松代藩の後継者は自分である」と幕府に訴え出て撤回を求めます。
信利には正室の実家の土佐藩や老中で下馬将軍酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開します。
1658年6月
幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定。このとき、幕命により、沼田領は松代藩から独立して正式に沼田藩として立藩します。
1662年
これ以降、信利は10万石の松代藩に対抗するため、より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告します(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかったそうです。)
また、沼田城を修築して5層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏してゆきます。
一言時の流れは恐ろしいですね。あの有能な武将ばかりだった真田一族にも、こんな徳川秀忠を超えるおバカが現れるなんて。)
1663年4月15日、
松仙院が亡くなり、(松仙院享年不詳)実家の菩提寺である曹渓院に葬られます。
松仙院の墓は、聖興院の墓の隣にあります。
松仙院の墓の隣には義父:信之の供養塔があり、この建立者は松仙院説と信之次女の見樹院説があります。
1680年、
信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負いますが、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、1681年10月の納入期日に間に合いません。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出します。
1680年11月
沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易されます。
信利は山形藩奥平家に、長男の信音赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなります。
1681年正月
幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められます。その後、信利は奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、同地で没します。享年54歳。
長男の信音は後に許され、旗本として1000俵(後に采地1000石)を賜ったが、無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぎますが、信興の子の政賢の不行跡のため、改易追放となります。
一言信利以後、劣性遺伝?なのか、複数のおバカが真田一族から出たのですね。)
この時、父信興の兄弟の信清も連座して改易となった。
その後、信吉の次男信利が悪政や両国橋普請遅延などの罪によって幕府によって改易され、沼田藩が取り潰しになりました。


田沼のシンボル的存在になった「城鐘」
1634年、
信吉沼田藩の安泰を祈願して「城鐘」を鋳造します。
沼田城が破却されたため、この城鐘も本来の役目を果たせなくなります。
1887(明治20)年、
「城鐘」を保護する動きが地元で起き、この「城鐘」を吊すための「鐘楼」が旧沼田町役場敷地内に建てられます。
1954(昭和29)年3月30日、
「城鐘」は県重要文化財の指定を受けます。
1964(昭和39)年、
市庁舎改築で取り壊されるまで、市民から「時鐘(ときのかね)」として親しまれます。
1983(昭和58)年、
沼田公園に「鐘楼」復元されます。
  
 
イメージ 1
大坂城極楽橋 
大坂夏の陣の終焉時には、この極楽橋周辺も、
大坂方の武士・婦女子・町衆にとって地獄絵図が繰り広げられる地獄橋になったのです。

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