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〜知られている真田幸村の名の由来に、推察を加えて〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
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大河ドラマ『真田丸』期待してるけど 冬の陣後家康は 和睦と言う名の謀略
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
真田幸村の名が本名ではないことは、多くの方が知るところでしょう。
では幸村の名の由来はご存知でしょうか?
結論から言えば、本人がこの名を使った証拠はなく、死後にその名が広まったのですが、だとしても幸村の名がどのような経緯で付けられたかについて、調べって見るのも面白いものです。
真田昌幸の次男信繁は、現在でも真田幸村の名で広く知られていますが、直筆の書状はおろか、生前の史料で幸村の名が使われているものはありません。
幸村の名が見られるようになったのは大坂夏の陣から59年後の1672年に発表された軍記物語『難波戦記』だそうです。
この『難波戦記』が人気を博し流布して広く読まれたためこの中で使われた名の幸村が一般的となり、時代が下るに従って幸村の名は更に普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄:信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで幸村が採用されています。
1. 「幸」は真田家や真田家の本家にあたる海野家の通字で、「村」については信繁の姉の村松殿 や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来する との説があります。 2. 真田幸村は元服後、真田信繁と名乗るようになった。
しかし、関ヶ原の戦いで父・昌幸と信繁(幸村)が豊臣方、兄・信幸が徳川方に別れ戦うことにな
っ た。関ヶ原の戦いは周知のとおり、徳川方が勝利したが父:昌幸と信繁は敵方だったために刑
罰の対象になったが、兄・信幸の配慮により流刑にて厳刑は免れた。
その際に信幸は真田家の家長を継ぐ証である「幸」を改め、信之と改名しています。そこで次男の 信繁が「幸」の字を使い幸村と名乗った。
などの説があります。
また、幸村という名は信繁の死後100年が経過しない内に、瞬く間に広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に幸村と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、立証されていません。 なお、大坂夏の陣から200年近く後の1809年に、徳川幕府の大目付(おおめつけ)から幸村の名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、信繁と把握している。幸村名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」と回答しているそうです。
とまあここまでは、ちょっと調べれば直ぐに分かるお話です。 以後は全く個人的な推察によるお話をご紹介します。
上記した中には、
「村」の一字は信繁の姉、つまり父:昌幸の長女:村松殿や所持していた?妖刀村正から、
「幸」の一字は兄が信幸から信之と改名して「幸」の文字を徳川方では用いなかったことから
それぞれ一字づつ得て幸村とした説も紹介しました。
私はここから話を広げたいと思います。
まず姉:村松殿ですが、の名の由来ですが、村松殿 - Wikipediaには、「
長姉として、信幸(信之)や信繁(幸村)に敬愛されていたらしく、信繁が彼女宛てに書いた手紙が残されている。
」と紹介されています。恐らく、村松殿がもし女性ではなく男性だったなら、嫡子としても遜色ない人格と聡明さを持っていた人なのでしょう。
ならば父:昌幸の後を受けて真田家当主となった信繁がその名の一字「村」を得て名乗ったとしても不思議はありません。
そして村松殿の名の由来は、「夫:小山田茂誠が昌幸から小県郡村松(現在の青木村)を領地として与えられ、そこに住んでいたため、村松殿と呼ばれた。」と紹介されています。
信繁は大坂冬の陣から講和によってつかの間の休戦となったおり、姉:村松殿への書状を送っています。
恐らくこの時、本来の真田の里である信濃の地で過ごした幼少の頃を懐かしく思い浮かべながら書状をしたためたに違いありません。その信濃の里:小県郡村松と、これにちなんだ姉の名の「村」の一字がひどく心に残ったことでしょう。
更に、兄:信幸は徳川方に組したために徳川への忠誠を示すために真田家嫡子の証とも言える「幸」の一字を捨て、信之と改名したことに思いを寄せ、真田の家督を継いだ信繁は、敬愛する父:昌幸、姉:村松殿、兄:信幸にある一時を、真田家への誇りの証としてもらい受けたのでしょう。
そして、最後の時を覚悟した大坂夏の陣では、家康本陣にて家康を目前にした時、「我こそは、真田昌幸が子、真田幸村なり。」ときっと言ったのだと思えるのです。
幸村の名が文献として残っていないのは、信繁自身の書状で使わなかったことと、家康の家康が危ぶまれた最後の戦場においてのみ名乗ったことを、徳川方ではあえてその後軍記などにおいて記さなかった。もしくは、家康がこのことを口にすることも、側近の者が明かすことも許さなかったためだと思えます。
ただ、幸村の最後の戦いを見ていた一兵卒が、密かに幸村の名を噂したことが、後世に知れ渡ったのではと。
また、私の推察とは異なり、信繁の死後に幸村の名が付けられたとするなら、徳川への復讐に燃える信繁が徳川代々に災いをもたらしたとされる妖刀村正の「村」一字を得て戦ったことも納得できる説です。
ただし、幸村が村正を所持していたという実際の記録はないそうですが・・・・。
それでも、「我自身が妖刀村正となって家康に祟ろうぞ!」と決意したとしても不思議はありません。
【村正妖刀伝説】
徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であったとか。
また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったといいます。
さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切りました。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったといいます。
これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅します。
真田庵(善名称院:ぜんみょうしょういん)を東側より望む
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