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〜七人の影武者がいた?真田幸村もまた影武者だった〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編
●真田氏に関するページ●
幸村の父:昌幸が憧れた 長兄:信綱 関ヶ原の戦いから大坂の陣に至る話
大河ドラマ『真田丸』期待してるけど 冬の陣後家康は 和睦と言う名の謀略
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
影武者の影武者7人虚虚実実の幸村
真田幸村に幾人かの影武者がいたことは事実のようです。
ただし何人いて、何と言う名で、どのように生きたかについてはよくわからないようです。
戦国武将の大将は戦いにおいて討たれるわけにはゆきません。大将の死は敗北を意味します。
なので幸村に限らず、影武者をもつ武将は幾例もあったようです。
そこでまず、幸村の影武者と言うより、影武者そのものについて調べてみると、
影武者から『元の木阿弥(もくあみ)』という有名な ことわざが生まれたことがわかりました。若い人は知らないかもしれませんが・・・・。
【元の木阿弥の由来】
戦国中期、大和国あたりを支配した筒井順昭(じゅんしょう:1523年-1550年)は、わずかに27年の命だったようです。
順昭が亡くなったとき、嫡男の藤勝(ふじかつ)はまだ2歳でした。順昭は猛将として恐れられていましたが、領土周辺には戦国武将や野武士、僧兵たちが取り巻いています。 その死を知ればたちまち襲いかかってくるに違いありません。筒井家では、順昭の死を隠し、順昭は死の間際に家臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、敵を欺くため、自分と声が良く似ている木阿弥(もくあみ、黙阿弥とも)という奈良の盲目の僧を影武者に立て、3年間(資料によっては1年間、あるいは子の順慶が成人するまで)死を隠すことを命じます。
木阿弥は障子や襖の内で順昭を真似て指令を出し、報告を聞き、その役目を果たしました。その間一族郎党もみな「殿はまだ生きている」と思っていたようです。
嫡子である藤勝が成人するまでのあいだ、木阿弥は特別待遇を享受しますが、藤勝が順慶(じゅんけい)と名前を変えて一人前になるとただちにお払い箱となり、奈良へ帰されます。 結果、木阿弥はただの僧のに逆戻り、『元の木阿弥』となります。
以上のように影武者の運命ははかないものです。
木阿弥は武士ではありませんでしたが、武家の家臣は主君のために喜んで命を掛けて影武者になったのです。
さて、本題に入ります。
真田太平記 - 大坂夏の陣によると、
“討死にすることを覚悟していた真田幸村は、ただ徳川家康の首を討つことだけを目指して愛馬「月影」にまたがり、敵陣へ突入してゆき、
人間わざともおもわれぬ槍さばきで敵を撃破してゆきます。逃げ足となり、手薄となった松平忠直に率いる越前勢を一気に突き破った幸村は、約五十騎の手勢をひきいて、猛然と、徳川家康の本陣へ殺到します。 本陣に入ると抱角(だきづの:鹿の枝角を左右抱き合わせた)の兜こそかぶってはいないが、幸村と同じ緋縅の鎧をつけ、唐人笠の馬印と共に、数人の戦将が、 「大御所の御首頂戴!」 「御首頂戴!」 呼号しつつ、四方へ散った。これは、真田幸村の影武者といってよいだろう。 九度山以来の、幸村の家来である高梨内記・三井豊前・青木半左衛門などが、十余名の兵と共に影武者となり、家康の本陣を目がけて突撃する。 それこそ、「あっ……」という間もなく、正に旋風のごとき赤色の魔神の一隊となって襲いかかります。 すると本陣の、低い丘の下にいた約五百の家康の旗本たちは、真田勢のあまりに猛烈な攻撃に、大御所の徳川家康の身を護ることさえ忘れてしまい、三河以来の武勇を誇る、家康直属の戦士たちが半里も一里も逃げ散ってしまったといいます。” これは史実とは異なるかもしれませんが、敵味方入り乱れる戦いの中では、影武者は、容姿が必ずしも双子のようにそっくりである必要はありません。 真田幸村の様ないで立ち(赤備えの甲冑をまとった姿)であれば、それで敵の目をあざむけるのです。
影武者といえば、武田信玄が有名ですが、真田幸村も複数の影武者を用いていたようです。
『元和先鋒録』には「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し。
この日、初めは茶臼山え出、それより平野口において伏兵を引廻し、また岡山に出て戦ふ、後に天王寺表において討死す」とあり、幸村があちこちに現れたことを記しています。
西尾仁左衛門に討たれたのは望月宇右衛門(望月六郎兵衛村雄?)で幸村の首だと信じ切っていた松平忠直に遠慮して将軍秀忠も本物ということにした(『真武内伝追加』)。
また、『慶長見聞書』でも首実検に立ち会った叔父の真田信尹も西尾がもちかえった首を幸村だとは断定できなかったようです。
またこれとは別に、幸村だと思って討ち取った首を吟味したら穴山小助だとわかったので刑場に捨て、後に土地の者が丁重に葬ったと伝えられるそうです(『真武内伝追加』)。
『真田三代記』には幸村の影武者として七人の名前を載せています。三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤)幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄ですが、夏の陣で活躍した大坂方の武将たちの名前にちなんでいるようで、これも創作っぽいものです。「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌まであるそうです。
(一言:7人の影武者じゃあ、六文銭の銭の数より多いですけどね。)
また、
真田幸村の愛馬::産経新聞ファンクラブ「ウェーブ産経」大阪事務局によれば、
大坂夏の陣の後、幸村の首は、西尾が取ったもの以外にあと2つ出てきたそうで、首実検(くびじっけん)の結果、西尾のものが幸村の首と決まった。けれども、『真武内伝追加(しんぶないでんついか)』が引く「梅(ばい)林居士ト云者(ばいりんこじいうもの)ノ記」によると、西尾が取ったものも実は幸村の影武者望月宇右衛門(もちづきううえもん)の首で、西尾の主人である松平忠直が西尾のものが幸村の首で間違いないと強硬に主張したため、将軍秀忠もこれを認めたという。忠直の父は家康の次男秀康(ひでやす)で、越前松平家は将軍秀忠の兄の家系にあたるので、秀忠にも遠慮があり、忠直の主張を認めざるを得なかったと記されているそうです。
忠直は、西尾久作が真田幸村の首とともに獲た幸村の愛馬をたいそう気に入り、大坂夏の陣後、越前でも盛んに乗り回し、船に載せて豊後にも伴った。忠直は、慶安3(1650)年9月10日、津守で56歳で逝去します。
津守の碇島(いかりしま)と呼ばれる丘の中腹に忠直の廟所(びょうしょ)があり、その麓(ふもと)に忠直お気に入りの幸村愛馬の墓があるそうです。
墓石には「真田(さなだ)栗毛埋所(くりげうめどころ)」と刻まれるが、『難波戦記』や『先公実録』では、幸村の愛馬は「河原毛」と記されていた。「栗毛」は「地肌が赤黒く、たてがみと尾が赤茶色を呈しているもの」(『日本国語大辞典』)で、「河原毛」は「朽葉(くちば)を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒く、背筋に黒い筋があるもの」(同)であるから、両者はまったく異なっています。やはり、西尾久作の取った首は影武者のそれだったのでしょうかと、疑問を呈しています。 (大阪城天守閣研究主幹 北川央(ひろし))
幸村の影武者については、以上の記述で理解していただいたでしょうか? ですが、幸村もかつては影武者だったというお話があります。
幸村の実の名:信繁は、武田信玄の弟・武田信繁に由来するそうです。
武田信繁は父:昌幸が武人として最も尊敬していた武将です。
武田信繁は兄:信玄をよく補佐していた名将でしたが、信玄と容姿・背格好ともによく似ていたため、合戦の時には信玄の影武者として出陣し、川中島の合戦の折、窮地に立たされた信玄を守るために、信玄の影武者となり敵陣に突っ込み、壮絶な死を遂げます。
武田信繁は日ごろから、「兄の身代わりになって死ねれば本望」と話していたという。
昌幸は武田信玄・信繁兄弟の固い絆に感銘を受けており、嫡男の信幸の後に生まれた男子にはためらうことなく信繁とつけたといいます。 幸村自身も信幸の影武者になることを誇りとし、兄の背後に寄り添い、目立つことは一切避けていました。 信之が弟・幸村を「物ごと柔和・忍辱にして強からず。ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし」と評するに至った要因は、幸村の立場が影武者だったからこそなのかもしれません。
しかし、幸村の影武者生活は武田家の滅亡により終わりを告げ、以後は上杉、豊臣への人質生活になるのです。
最後に幸村の人柄を紹介するページ:信之の幸村評をご紹介しておきます。
幸村というとどうしても「日本一の兵」(島津家中某氏による)や「鬼のようなる真田」(当時の俗謡)といった猛将のイメージがありますが、実際には信之が評したように温厚で大人しい人物だったようです。
残っている手紙を見ても武将としてかたひじをはったような文章は全くなく、以前にご紹介したように、国元へ宛てた書状には、配所で老いて行くわびしさ、肉親に対する愛情、大坂城内での気苦労などが率直に書かれています。 こういった温厚な人物が、家康を「自害する」と言うまでに追い詰めたとは思えませんが、信之の「怒り腹立つことなかりし」という評の中に自身の感情をセーブする精神の強さを垣間見えます。 現代の戦争経験者は、普段部下に威張りちらす上官は戦闘ではあまり役に立たず、平素は温厚な人物のほうが勇敢に戦っていたとのことだ。また、そういう部下に優しい人物だからこそ兵たちは「この人のためなら死ねる」とか「この人と一緒に死にたい」と懸命に戦うのだろうと話されます。
幸村もこういうタイプの人物だったのでしょう。
幸村が九度山を抜け出した時、九度山近隣の猟師など数十人が同行していたといいます。 その中には、信之のもとで安穏に暮らせたはずの旧臣や関ヶ原戦後に帰農した旧臣なども地元から出奔して大坂城の幸村のもとへ駆け付けたものも大勢いたようです。
一般人の目から見ても到底大坂が勝てるとは思えない戦いに、幸村に従った人物は死を覚悟していたはずなのに。 また、大坂城で幸村の配下に組み込まれた牢人や豊臣家からの軍監(監視役)であった伊木遠勝も幸村の人柄に魅せられたのか、敗色が濃くなっても脱走する兵はほとんどおらず幸村と共に戦死しています。 また、幸村は温厚なだけではなく茶目っ気もあったようです。 幸村が山伏に変装して豊臣家重臣の大野治長を訪ねたが治長は留守でした。幸村が番所で待たせてもらっていると、若侍たちは自分たちの刀の目利きを始めます。 そのうちにある侍が幸村に持っている刀を見せろと言い出し、幸村は「山伏の刀は犬おどしのためのもの、業物ではない」と言って断ったが、あまりにも執拗に迫るので大小を渡します。 その侍が幸村の両刀の目釘を外し見てみると銘は正宗と貞宗、名高い刀匠の鍛えたもの。 とても山伏ふぜいの持てる刀ではなかったのです。
この人物は何者・・・と訝っていると治長が帰ってきて幸村を皆に紹介した。若侍たちは名高い真田幸村と知りかなり驚いたらしい。 後日、刀を見せろと迫った侍と大坂城内で出会った幸村は「刀の目利きは上達したか?」と微笑みながら声をかけ、侍は赤面して何も言うことができなかったという話が残っているそうです。 (一言:これホント?やっぱり後の世に創作された逸話のように思えますが、それほどの人物でなければ、稀代の策士として歴史に名を残すことは出来ないし、家康を窮地に追いやることもできなしでしょうね。でもこれって、影武者の人柄だったりして。)
幸村のこんな気さくな人柄が旧臣や九度山の人々に愛されていたのでしょう。 また、信之が松代へ移封になった時に国元へ送った手紙の書き様は、幸村とよく似ています。 関ヶ原合戦時に敵味方に分かれ、その後歩んだ道もずいぶんと違う兄弟ながら本来の性格はとても似ていたようです。 |
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