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〜難波八阪神社:難波八坂神社は誤り!難波神社とは?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
申し訳ありません。当初このページでは難波八阪神社と難波神社を混同していましたので、9月14日に訂正させていただきました。
これまでに『難波八阪神社』にかかわるページを2つご紹介しました。
ところが当初は誤って『難波八坂神社』と記しました。
ところが今日も『難波八阪神社』についてご紹介しようとした時、その間違いに気づいたのです。
なぜそのように間違え、なぜそのことに気づかなかったかというと、『やさかじんじゃ』を漢字変換すると、勝手に『八坂神社』と変換されるのです。
京都などにある神社があまりに有名であるがために、私の脳も『やさかじんじゃ』と聞けば、現地で『難波八阪神社』という文字の記された石柱をみていても、脳内で『難波八坂神社』と変換してしまうのです。おバカですね、我ながら。
大阪の中心地にある神社が、京都の神社名をそのまま使う訳がないですよね、今にして思えば・・・・。
話を戻しますと、今回私が神社名の誤りに気づいたのは、『難波八坂神社』のワードで検索して開けた『難波八阪神社 - Wikipedia』の記述の冒頭を見たからです。
その冒頭の記述は以下の通りで、
とはっきり書かれています。
ここまではっきり書かれているのを見て気づかないほどおバカではなかったのですね、私は。
【難波八阪神社とは】
難波八阪神社公式ホームページによると、
当社(難波八阪神社)の創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来「難波下の宮」と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました。
もとは神仏混淆でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治5年(1872年)に郷社となりました。現在のご本殿は、昭和49年(1974年)5月に完成。 ではそもそも難波とは、どのような由来のある地名なのでしょう?
【難波の地名の由来】
上町台地北側の大阪城から海に向かって西方向一帯を 昔は難波(なにわ)と呼んでいました。 古代大阪平野は 淀川や旧大和川からの大量の土砂を運んできて大きな扇状地として形成されました。
海岸に近い平地部では多くの分流ができて 潮が引くと無数の水路ができて、浅瀬に立てられた標識(みおつくし)がなければ この辺りの水上を船が通行するのは困難でした。 そのような地形であった所から難儀で広い扇状地を見て、難波(なにわ)と呼ばれるようになり いつしか浪速と呼ばれるようになったようです。 難波 - Wikipediaによれば、 現在では、ほとんど難波と認識されることのない南船場に、難波別院(現在の通称:南御堂です。)・難波神社が有るのは、難波の地名の由来となった西成郡難波村が、もともと南船場・島之内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていたからだそうです。
江戸時代初期に行われた大坂城下の拡張に伴い、上難波村はわずかに飛地としてその姿を残す程となり、下難波村は道頓堀川以南へ移転されます。
また堀江
(大坂城下の南西端に位置し、陸地になったのが最も遅い低湿地であり開発は遅れた。)
では、上記の【難波の地名の由来】の記述の中にある、難波神社とは何でしょう?
【難波神社とは】
難波神社の記述によれば、
「難波神社(なんばじんじゃ)とは大阪府大阪市中央区博労町4丁目1番3号にある神社。主祭神は仁徳天皇、配祀は素盞嗚尊。社格は府社。秋祭(例祭)は10月20日。摂津国総社として「難波大宮」または「平野神社」と呼ばれていたそうです。
創建は反正天皇と伝えられ、当初は大阪府松原市に鎮座していた。慶長2年(1597年)現在地に遷座、昭和20年(1945年)空襲により全焼、昭和49年(1974年)に再建され現在に至る。」と記されています。
難波下の宮を難波八阪神社と呼ぶようになったようです。
ちなみに、全国には八阪と呼ぶ神社も多くあるし、この名は明治政府が決めた話なのでどちらでも良いでしょう」と難波八阪神社の宮司さんは言っているらしです。
独自性を主張したがる大阪人にしてみれば、難波八阪神社とすることで、八坂神社とは関係ないですよ!と言いたげな名こそ、大阪にふさわしいと思っているのではないでしょうか。
難波八阪神社の宮跡
後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られ、当時『難波下の宮』と呼ばれていた宮跡を示すもののようです。
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