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〜なんばCITY本館前にある難波御蔵・難波新川跡〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
9月2日に道頓堀のグリコの看板や、灘波八阪神社を撮影した後に、『灘波中』の交差点を通りました。
なんばパークス東側のカーニバルモールの入り口、南海電車のガード下手前には「難波御蔵難波新川跡」の石碑が建っています。 石碑に刻まれた「難波新川」とは、難波入堀川とも呼ばれ、1733年道頓堀から難波御蔵への米の輸送路として掘られた運河でした。
難波御蔵は、江戸幕府直轄の米蔵「難波御蔵」は1733年に設置され、規模の大きさ(東西127m、南北327m)から、住吉大社や阿弥陀池和光寺などと並んで当時の大阪観光の名所のひとつだったそうです。
ちなみに当時、大坂城には天守は無く、大阪城代はじめ幕府直轄の警備隊が駐留し、周辺地域を含めて一般の立ち入りを厳しく制限していたので庶民の観光名所ではなかったようです。
難波御蔵は一般人の立ち入りを禁止してはいなかったものの、西日本最大の規模を誇っていたも厳重に警護されていて、少し遠いところであっても大坂市街地に火災が発生した場合には蔵奉行のみならず、大阪城代から町奉行、町火消、それに200人の人足が駆け付ける防火体制になっていたといいます。正に日本の台所だったのですね。
「難波御蔵」設置から50年後、1783年(天明3年)に発生した飢饉では、大阪市民40万人の半数が飢餓に苦しみ、一部は暴徒となって難波御蔵を襲撃したことがあったために大阪町奉行は、極貧の者だけに限定した特別措置として蔵米を少し供給したこともあったといいます。 (一言:〜難波八阪神社:難波の発展に寄与した代官を祀る笹山神社〜でご紹介した篠山十兵衛景義さんの命だったのでしょうか?)
現在の灘波
1970年代の大阪球場があった頃の灘波
灘波御蔵・新川跡
灘波御蔵・新川跡となんばCITY本館入り口
灘波御蔵・新川跡
の説明板
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