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〜あべのハルカスと通天閣を一望できる『公園北口』の歩道橋〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
前回ご紹介した難波御蔵・難波新川跡 を撮影した後、日本橋筋へと進んで南下した後、国道25号線と交わる恵比須の交差点で浪速署を巻くように東方向へと曲がって、国道25号線を東に進むと、松屋町筋と交わる『公園北口』の交差点に歩道橋があります。
その歩道橋に上がってみると、あべのハルカスと通天閣がよく見えます。
言うまでも無く、日本一高いビルとして知名度を得たあべのハルカスは現在の大阪の名称です。
対して通天閣は、昭和の時代よりずっと大阪を象徴する名所でした。
これら2つを望むことが出来るこの歩道橋の上は、お勧めの撮影ポイントだということは、以下の画像からお分かりいただけるでしょう。
ところで、撮影を終えて改めて歩道橋を見上げてみると、『天王寺区逢坂2丁目』の文字が書かれていることに気づきました。
そこで逢坂(おうさか)について検索してみると、逢坂 (大阪市) - Wikipedia逢坂 (大阪市) には、「道路(坂)としての逢坂は、天王寺区逢阪1丁目の「天王寺公園北口交差点」から四天王寺1丁目の「四天王寺交差点」にかけて東西にのびている坂で、現在の国道25号そのものである。東側(四天王寺)の標高が高くなっている。西側は松屋町筋、東側は谷町筋につながっている。『天王寺七坂』のひとつで一番南にある。」と紹介されています。
この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。もともと、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは浪速(難波・浪花・浪華)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばすに及んで、大坂という呼称が定着した。
その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(日本書紀には烏瑳箇とある)。このためにこの説は信憑性に乏しい。
蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うようになったことから、「おおさか」と呼ぶのが広まったという説もある。
大阪 - Wikipediaによれば、「漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「坂」の字を分解すると「土に反る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違いから定着したともいう。」と紹介されています。
また、一説には、『大坂』の地名の由来は、坂のある地形から名づけられたと考えられますが、戦国時代以前には、『小坂』や『尾坂』といった記述が見られることから、『大きな坂』という意味ではなく、『オオ』は接頭語で、坂が傾斜地の意味ではないか?と言われています。
【逢坂(おうさか)を含む天王寺七坂とは】
天王寺七坂(てんのうじななさか)は、大阪市天王寺区の上町台地西側(夕陽丘地区)にある7つの坂の総称。
北から順に、
がある。
これらの坂のある地域一帯はいわゆる「寺町」であり、江戸時代に大阪城下より移転させられた仏教寺院が多く集まっている。大阪市内では比較的緑が多く残っており、著名人の墓や碑のほか、大阪市唯一の滝であるとされる「玉出の滝」が存在するなど、観光スポットとなっているとか。
坂のあるあたりの北西部一帯は下寺町と呼ばれている。
上記の7つの坂に学園坂を加えて天王寺八坂とも呼ばれるそうです。
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