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〜浄瑠璃の舞台になった閻魔堂(えんまどう)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
前回ご紹介したあべのハルカスや通天閣が一望できる陸橋のたもとには、閻魔堂(えんまどう)なる小さくて普通の民家のようなお堂があります。
ですが調べてみると、実際には歴史あるお堂であることがわかります。
こちらでいただける「浪速名所 合邦辻閻魔堂の由来」によりますと、閻魔堂はもと立派な伽藍だたそうですが、兵火にかかってから辻堂となり、江戸時代には「町内持ち」といって、町内によってまつられていたそうです。
河内国高安城主の子息・俊徳丸が病気平癒したという故事が殘る合邦辻閻魔堂。本尊・閻魔大王は、首から上の頭や脳、咳の神様として知られる閻魔様です。頭痛、脳病、咳などのご祈祷が行われ、お守りが授与されます。聖徳太子が物部守屋と仏法について論じられたところと言われ、太子の開基と伝えられています。 また、この閻魔堂(えんまどう)は、浄瑠璃の『摂州合邦辻』に登場するのだそうで、浄瑠璃に縁のあるお堂ということで、現代の歌舞伎を担う若手スターのひとり、尾上菊之助さんも来られたそうです。
『摂州合邦辻』には、河内国の城主高安左右衛門の息子俊徳丸が登場しますが、その名は四天王寺にゆかりの「俊徳丸伝説」に由来します。河内国高安に住む若く聡明な俊徳丸は隣村の蔭山長者の娘と恋に落ちますが、継母に憎まれた俊徳丸は失明させられ家から追放されてしまいます。その後四天王寺境内で物乞いをする身となりますが蔭山長者の娘と再会し、涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気が治り2人で幸せな人生を送ったと伝えられています。
この俊徳丸の伝説から、説教節「しんとく丸」や能の「弱法師(よろぼし)」ができ、継母の継子への恋がモチーフに加えられた「摂州合邦辻」で、主役である玉手御前が最期を遂げたのがここ「合邦庵室」とされています。
俊徳丸が四天王寺に通った道筋は、俊徳街道と言われています。四天王寺の西門で西に沈む夕日を拝み、西方浄土を偲んだと伝えられる俊徳丸、今も病気平癒を祈願するため、多くの方が閻魔堂を訪れています。
閻魔堂のちょっと西側に、北に向かう路地があり、階段になっています。この交差点が「合邦が辻」と呼ばれていたそうで、これを二つに分けて、「合邦」と「お辻」(玉手御前の名前)という役名にしたと言われます。
また、「落語でも『弱法師』別名『菜刀息子(ながたんむすこ)』という作品になっていているとか。
おこもさん(乞食)がたくさん出てくるシーンが出てきます。『天王寺詣り』にも同じような場面はありますが、その時の弱法師のほうが、生と死がより近かく、信仰にも熱心でした。
現代でも信仰の灯火が消えたわけではなく、石碑の「手」というとこに手を置いて、自分の悪いとこに手を置くと治るといわれ、多くの方が訪れるそうです。
落語は、笑いの中に、当時の死生観や暗く重いものも滲ませながら伝えられているのだと気づかされる。吉坊さんも、落語を演じる中で、当時の境内やまちの雰囲気を想像するのだが、実際に足を運ぶと、現代の目の前の風景との違いに、やや戸惑うこともあるという。「失われたのは、目に見えないもの、たとえば神仏への思いでしょうか。たとえば、生き別れた人に会えるとか、傷が治るとか、その場所が四天王寺だったというのも、お大師さん(弘法大師)のご利益であるという信仰が、古典の作品にしっかり埋め込まれてあるんですね。それだけ生活に信仰というものが近かったのではと思います」
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