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〜安居神社:幸村終焉の地〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
●真田氏に関するページ●
幸村伝説は幽閉地九度山真田庵から 幸村と家康大坂冬の陣の計算と誤算
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
真田幸村が討ち死にした場所幸村像
〜大坂夏の陣:天王寺口の戦い(幸村ついに死す)〜でご紹介したように、
大坂冬の陣で徳川方の昼夜を問わない大砲による攻撃に屈して和睦に応じた豊臣方でしたが、大坂城の守備に無くてはならない堀の大半を、家康のだまし討ちのようなかたちで埋められ、一時の平和が訪れたかに見えましたが、和睦する以前から家康は豊臣家滅亡のための準備を着々と進めていました。
大坂冬の陣が収まってから(12月20)わずか1ヶ月後には大砲などの発注をかけていた家康は、豊臣方が早々に合戦へと向かわざるおえないように仕向け、その動きが見えるや否やの4月23日に、徳川軍を大坂へと進撃させます。
徳川軍を迎え撃つ豊臣方は、5月6日の道明寺の戦いで作戦がかみ合わず、敵軍の動きに対する読みもはずれために、豊臣軍の有力武将を多数失うこととなりました。
翌日の決戦では真田幸村などの軍略により、前日に実行できなかった戦闘計画を実行すべく最後の戦いと定めた真田幸村は、茶臼山に布陣します。茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には大助が控えていたといいます。狙うは敵方本陣の家康のみでした。
当日の計画では、まず敵を四天王寺の狭くてゆとりの無い丘陵地に引きつけ、誘引されてきた敵を順次叩きます。
その後敵の陣形が伸びきって本陣が手薄になったところで、別働隊の明石全登を迂回して家康本陣に突入させ(あるいは別働隊が敵本陣の背後にまわったところで狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟撃し)、家康を討ち取るというもので、具体的には、幸村が〈毛利勝永・大野治長・明石全登〉らと共に徳川方を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、混乱させたところで背後から〈明石隊〉が挟撃するというものだったそうです。
しかし、〈毛利勝長〉の兵が先走って徳川方を撃ったために、またしても思い描いた通りに戦局は動きませんでした。
すべての計画が駄目になった幸村は、軍監(豊臣方の№3)の〈伊木遠雄〉に対して、「事がこの様にすべて食い違っては作戦が行えません。これはもはや我が命が終わる時である」と言い、息子の大助を豊臣方の総大将:豊臣秀頼の元へよこし出馬を乞いますが、願いは届きませんでした。
仕方なく真田幸村・大助親子も戦局の流れにそって出陣します。 真田隊は〈松平隊〉をけちらし、家康本陣へと突撃し、真田隊の前に本陣は壊滅します。
かの秀吉にさえ負けなかった家康自慢の本陣旗本衆が逃げに逃げ、本陣は荒らされ、三方ヶ原の戦い(武田信玄軍と徳川軍+織田の援軍が戦った)以来倒れたことのない「厭離穢土欣求浄土」の軍旗や金扇の馬印が幸村隊の馬蹄の下に踏みにじられ、家康も自刃を覚悟した程だったと言われます。
しかし、激戦の中、真田隊は力尽き、幸村は自害するべく●安居天神●にたどり着き、休息を取ろうとするのですが、その前に討たれてしまったといいます。
この●安居天神●こそ、現在の安居神社です。
幸村は享年49歳で最後を遂げますが、現代日本人の49歳と言えば、まだまだ若々しい年齢で、かく言う私などは既にその年を過ぎていますが、元気元気です。
ところが、大坂の陣以前に和歌山県の九度山に幽閉されていた真田幸村は、 〜九度山町ぶらり:大坂の陣 序曲(幸村の戦いは軍議から)〜でもご紹介したように、実に14年にも及ぶ流人生活を過ごす中、1611年に父:昌幸が他界し、大坂冬の陣の年(1614年10月9日)、更に幸村の母:山手殿((寒松院))も世を去ります。
この頃幸村が国元に送った書状には、「こちらの冬は不自由にて、いっそ寂しく思う。私のうらぶれた様子を使者が話すだろう。もはやお目にかかることはない。とにかく歳を取って残念である。」と心境をつづっています。
また、容姿についても、「急に歳をとり、病身となって、歯も抜けた。髪なども黒いところは無い。」とつづっています。
つまり、現代の日本人にあてはめて言うなら、65歳を過ぎた老人のような実像だったようです。
しかし、その年の10月ごろ、そんな失意の幸村のもとに、大阪城に登城し、家康との合戦への加勢を要請するため、その支度金として黄金二百枚・銀三十巻を携えて、豊臣秀頼の使者が密かに訪れます。
幸村にしてみれば、待ちに待った知らせであった事は言うまでもないでしょう。
徳川家康を討つべく九度山を脱出したおりの幸村は、上記の書状からうかがえる老人像よりは覇気に満ちて若返っていたでしょうが、戦いに敗れこの終焉の地に逃れ来た時には、以前にも増して老化した姿だったのではないでしょうか。
それでも、安居神社に置かれた戦国最後の英雄である真田幸村の像は、以下に紹介しているよに、現代日本人の50歳前後の生き生きとした姿でなくては・・・・ですよね。
そしてその幸村像の傍らに置かれた愛刀こそ、後々までも徳川家に仇名したと言われる妖刀村正なのでしょう。 安居神社の西側にある正鳥居と参道は、ビルの狭間 鳥居に架かるしめ縄は、一見すると真新しいワラのようですが、実際は、ビニール製でした。
真田幸村公之像と安居神社拝殿 幸村の像の向かって右には、後々までも徳川に仇名したと言われる妖刀村正?が、・・・・
真田幸村公の銅像は、
一口5000円からの寄進を募って、2009年12月17日の除幕式でお披露目されたそうです。
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