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〜安居神社:肝心なのは真田像より『さなだ松』です〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
●真田氏に関するページ●
幸村伝説は幽閉地九度山真田庵から 幸村と家康大坂冬の陣の計算と誤算
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
この地を訪れる方の多くは、恐らく先にご紹介した『真田幸村戦死跡之碑』や、『真田幸村公之像』に目をうばわれて、肝心の幸村が討ちとられたとされる場所を見逃している気がします。但し、一説にはこれより200m先の田んぼだとか・・・田んぼはもうないでしょうが。
道明寺の合戦で伊達政宗軍と戦い翌日には徳川家康の本陣・茶臼山を攻め松平忠直軍と奮戦するが、遂に力尽き安居神社境内の一本松の下で戦死したといわれます(享年49歳)。 ただし、現代の松は2代目だそうです。
心眼寺にあったとされる幸村鎧掛けの松の木は、昭和20年(1945)の大阪大空襲により堂宇ともども焼失したそうですが、初代さなだ松は何時から無いのでしょう?
二代目さなだ松は戦後のものでしょうか?
ところで、以下の一番目に紹介している二代目の一本松ことさなだ松の画像には、一目でわかるステンレス板に大きく『さなだ松』と書かれていますが、松を挟んで左側にも石柱が建っています。
2つ目の画像:石柱のアップ画像をご覧下さい。
とっても分かりづらくなっていますが、思い込みを持ってマジマジと見ると、確かに正面に平仮名で『さなだ松』、右面には漢字で『真田幸村???地』と書かれているようです。
いったい何時の時代に立てられた石柱でしょうか?
神社の南側(国道25号線の逢坂(おうさか)側)にある『元和元年五月七日 真田幸村戦歿地(大正9年大阪府)』の碑があることから、さなだ松の横にある石碑の右側に書かれた文字も恐らく『真田幸村戦歿地』と書かれていて、その削れ方からして大正9年以前のものと思えます。
幸村ファンなら、せめてこの石碑の文字くらいは見定めなければ、大きな顔をしてファンとは言えないのでは?と私は思います。
ちなみに、例年幸村の命日:5月7日に幸村祭が行なわれます。
安居神社の創建の年代は詳らかでないそうですが、聖徳太子が四天王寺を建てた頃(約1400年前)であろうと伝わり、境内は天神森あるいは安居森とも称され、景勝地だったそうですから、幸村が戦死した当時も神社だったどころか、更に1000年前から神社だったことになります。
幸村を討つという大金星をあげたのは、〈松平忠直軍〉の鉄砲頭・〈西尾仁左衛門〉とされています。幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、 〈西尾仁左衛門〉に首を差し出したとする逸話が知られています。
へそ曲がりの私としては、英雄を殊更に美化した逸話だとも思えますが、敵方である 徳川幕府の史料にも残っているそうですから、これ以上疑うことは止めます。
〜大坂夏の陣:天王寺口の戦い(幸村ついに死す)〜で記しているように
西尾宗次 - Wikipediaには、「西尾 宗次(にしお むねつぐ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は仁左衛門。父は宮地久右衛門。初め宮地久作、後に西尾久作。 大坂夏の陣で越前松平家鉄砲組に属し、安井神社の境内にて休息中の真田信繁を討ち取る。その功から、徳川家康及び徳川秀忠父子からは褒美(ほうび)を、〈松平忠直〉からは刀などを賜った。 一方、自身の功績を誇張して報告した、逆にどのように討ったか黙して語らなかった、拾い首であった、討ったのは影武者である望月宇右衛門であった、などの理由から家康の不興を買い、褒美(ほうび)を貰(もら)えなかったという逸話も残されている。」という記述が有ります。
また、読売新聞 2013年2月25日(月)配信 の記事として、1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかり、覚書では、〈仁左衛門〉が、相手を幸村と知らないまま槍やりで戦い、討ち取ったと記述。後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしています。
しかし、最近、真田幸村(しげとし?)の新説が発表されたと小耳に挟んだのですが ...での回答には、「西尾宗次の主張を記した史料が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)の中にあるよということがわかった。という ただそれだけのことなのです。」と素っ気無いお答えが紹介されています。
結論を言えば、幸村の最後の様子については、未だよく分からないというのが現状のようです。)
敗れて首を取られはしますが、その戦い振りは徳川方でも賞賛され、剛勇で知られる島津家でも「真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由」と幸村の活躍を讃え、遺髪一筋に至るまで取り合いになったといわれるほどでした。
この辺りで討たれた幸村とおぼしき武者には、影武者だった穴山小介もいたという説があります。
穴山小介は大坂冬の陣では、幸村の影武者として?いや幸村として真田の出丸から徳川勢を迎え討ち、夏の陣で家康本陣に最後の最後まで「我こそは真田佐衛門幸村なるぞ」と大声を発して攻め入ります。
しかし家康本陣に切り込んだところで、旧武田家家臣:原隼人(真田幸村の旧友)と切り合い、壮絶な死をとげます。
幸村の首級は家康本陣にいくつか持ち込まれたが、穴山小介の首級が幸村のものと最終判断されたそうです。
ようするに、安居神社で討たれた武者が本当に幸村だったのかどうかは、未だに定かではないのです。
だからこそ幸村伝説は今日まで庶民に愛されたとも言えますし、だからと言ってどこかに英雄の安息の
地を定めなければ納まりがつかなかった、とも言えます。
もちろん私も幸村の生き様を称え、二代目さなだ松と石柱に向かって冥福を祈りましたよ。
だれだって一生を懸命に生き、やり切った感を持って終焉を迎えたいですよね。
たとえ大願が成就しなかったとしても・・・・成就するに越したことはないですが・・・・。
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