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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜住吉大社の古代から現代における配置の変化とその意味
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/住吉大社編(16)
 
 
正月の住吉大社→無数の願いはかなう?  正月のチン電:大社前→乗車客てんこ盛り
住吉大神出張所だけじゃない→宿院頓宮  神話調べで大変でした→荒和大祓神事は 
龍神の化身か?→開口神社の変な手水石     大社前は海だった?結論→浜口萬目地蔵
大社の前が海だった?→海?ホント?①   高燈篭(再建最古灯台)→海?ホント?
神仏融合と政治経済→融合・政治的活動  神社格式・神の由来→万神(やおよろずの 
住吉造:本殿の画像→第一本宮と住吉造   本宮について→第四本宮〜第二本宮    
神と伝承について→幸壽門より境内へ      南北朝とのかかわり→外観と南北朝の話 
太鼓橋(反橋)について→太鼓橋(反橋)    神馬について→住吉大社の神馬      
住吉大社とチンチン電車→ チンチン電車    川端康成文学碑→文学碑・歌碑・句碑  
こんなのもあるよ →こんなのもあるんだ  カモノハシではありません→鴨と橋です。 
国宝社殿前を通る花嫁→住吉大社で結婚式   絶景 4つの本宮をトンボ目線で→本宮を一望
第三・第四本宮を正面上から→何が見え  住吉大社の古代〜現代の変化→その意味
  
本殿は、江戸時代1810年に建造され、第一本宮から第四本宮にいたる4棟があり、檜皮葺の住吉造りですべて西向きに配置されている住吉大社独特の配置です。」と記述されています。

ネット上に公開されているPDF]配置変遷からみる住吉大社では、

神社には古代や中世から現存するものもあり、それらは一見すると古来からの思想をそのまま現在まで継承しているようで、長い年月をかけて増減築を繰り返し、刻々と変化しているといいます。
各時代の人々は様式などを継承しつつも全体の配置を変化させることによって、その時代を反映する形を作りだしたのではいか?と考え、各時代の統合概念を導きだすことを目的に分析し、住吉大社の4つの本宮の配置の意味を導き出しています。
とても興味のある論文だったので、なるべく分かりやすくご紹介します。


以下はPDF]配置変遷からみる住吉大社を私なりにアレンジしてしまいました。

ちなみに、この卒業論文の著者は、米田沙知子さんで、大阪市立大学 建築デザイン研究室の大学院生(ソウル在住)だそうです。
米田さん、勝手に資料や記述を改変してごめんなさい。

【古代における住吉大社などの配置分析
イメージ 1
古代における住吉大社
古代、大阪はこのように現代の上町台地まで海岸線がせまっており、住吉大社は海に直接西面していました。
住吉大神は航海の神であり、当時、大阪一体を司る相当な権威をもっていたようです。
なので古代の住吉大社の配置は、外海からの脅威への備えを重視し、個々の建物よりも上図のように全体として総合的に風水の考えにもかなう防御能力をもたせることを意識して建てられていたようです。
(このような考えは、仁徳天皇陵などの百舌古墳群の造りからも伺えるようです。)
当時の住吉大社は、西は一直線に海を臨み、東は信貴山を背につけ、東西軸を強く意識して造られたと思われます。
当時、「北祭・南祭」という祭儀では、北は上町台地北側の田蓑嶋姫神社 (たみのしまひめじんじゃ:現在の田蓑神社大阪市西淀川区一丁目18-14)、南は上町台地南端の開口水門姫神社(現在の開口神社堺市堺区甲斐町東2丁1−29)で行われ、それは当時、西国への出入り口であった上町台地の全体を支配しており、それだけの権威をもっていたことが伺えます。
■住吉南祭と荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)について住吉大社宿院頓宮より
古来、日本では清浄を尊び犯した罪や穢れを除き去るため国家の行事として大祓(おおはらえ)を執り行ってきました。
大祓には毎年行われる恒例の大祓と臨時の大祓があり、恒例の大祓は6月と12月の寒暑の厳しい時期に行われ、6月の大祓を夏越(名越)の大祓と云い、12月の大祓を年越の大祓といいます。
この六月のが夏祭りとして伝承されてきました。
住吉大神は、記紀(古事記と日本書紀)の神話によれば、伊弉諾命(いざなぎ)が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あわきがはら)にあるみそぎ池で、禊祓(みそぎはらえ)をされた時に出現された神と伝えられています。 
又、731年の奥書がある『住吉大社神代記』に「三所の大神、(住吉大明神と称すなり)祷り(いのり:祈とうのこと)祓除(ばつじょ:災いを除き、けがれを祓うこと。)へする縁発」とあって、御祓いの神とされる所以(ゆえん)です。
更に、同神代記には「6月御解除。開口水門姫神社(開口神社:神代記では子神と記されている)。」とあり、奈良時代すでに、大祓が行なわれていたことがうかがえます。
今日では単に「おはらい」と呼ばれる住吉祭は、古くから南祭ともいい、夏の盛りに住吉から堺の宿院頓宮へ神幸があり、着輿祭の後、飯匙堀(いいがいぼり)において古儀(こぎ:古い時代の儀式)に則り茅輪(ちのわ:茅草(かやくさ)で作られた大きな輪で、それをくぐることで疫病や罪穢れが祓われる)をくぐり菅貫(すがぬき:茅輪におなじ)を以て「荒和大祓神事」を執り行い、人形に罪穢(つみけがれ)を託して祓具と共に茅渟(ちぬ:和泉国の沿岸の古称)の浦海に流して堺の平安と発展を祈るのですが、もともと摂津・河内・和泉の国中の大祓の意味が込められています。
一言:つまり住吉大神の守備範囲の南の拠点が開口神社で、夏と冬に住吉大神は開口神社近くの宿院頓宮へお渡りになり、守備範囲の南部である和泉の国の人々は住吉大神に対して平安と発展を祈る
のが南祭(現在の荒和大祓神事)ということでしょう。)
田蓑神社の由来と住吉大社北際宗教法人田蓑神社公式ホームページ:神社案内より)
「日本書記」や「古事記」でよく知られるお話しで、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きました。
そこで受けた汚れを清めるために、「筑紫の日向の橘の小門の憶原」というところで禊祓いしたとき、住吉の神である底筒男命 (そこつつのをのみこと) 、中筒男命 (なかつつのをのみこと) 、
表筒男命 (うはつつのをのみこと) の「住吉三神」が生まれました。
一言:男神が子を産むんですよ、神話では。スサノオも子を生んだのはご存知でしょ。変な話ですけど。だったら女神なんていらんやんか!って思うんですけど・・・私は。)
時代は下って、十四代仲哀天皇の妻である神功皇后 (じんぐうこうごう) が新羅(しらぎ:朝鮮半島の国)に出兵する際に、住吉の大神を守り神と奉り、遂に成し遂げ国の安定を築かれました。
その帰途、この地に立ち寄られた折、海士(あま:海人(あま)族。古代王族に使える一団。海人族(又は安曇族)とは当時の中国大陸の呉の民と考えるのが有力が白魚を献上されてより、その海士を奉ったとされています。
後の世、当地開拓の時その海士が出現し、神功皇后の御船の鬼板(おんふねのおにいた:船の屋根に鬼瓦のかわりにつけた飾り板)を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよと申され、869年に田蓑嶋神社を創建され、住吉三神と神功皇后の「住吉四神」をお奉りしました。
社名は時代と共に、田蓑嶋神社(田蓑嶋姫神社との説も)→住吉神社(住吉大神宮、住吉明神、住吉大明神とも)と変遷し、明治元年(1868年)に田蓑神社と改められました。

神功皇后は、吉大社第四本宮の祭神である息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。
第14代仲哀天皇の皇后で日本書紀では神懸(かみがか)りとなって神託をもたらすなど、巫女的性格を持った女性として描かれています。
仲哀天皇の熊襲遠征に同行した神功皇后は、軍議の場で神懸りとなり、神のお告げとして西方に金銀財宝に満ち溢れた豊かな国がある。これを与えよう」と発します。つまり新羅遠征を促すものでした。
ところが、夫の仲哀天皇はこれを信じなかったばかりか、神を偽者と断じたため、神の怒りにふれて没してしまいます。
お腹に後の応神天皇を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めると、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したと記されています。
一説には夫の死は、神功皇后以外との夫の子を天皇にさせないために神功皇后が暗殺したとも。
一言:つまり、住吉大社に神功皇后こと伊邪那岐命を祭神とする第四本宮を創建したのは、彼女の血筋である後の天皇が命じた、もしくわ許可したと推察できます。そして北祭は、この神功皇后にかかわる神話に由来するということでしょう。

【中世における住吉大社にかかわる配置分析
イメージ 4
                中世における住吉大社概念図
中世には仏教伝来に伴い、神仏習合の思想が生まれ、神宮寺(神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂)が創建されました。
神宮寺は、住吉大社本殿の東西軸に対し、垂直に配置され、新たに南北軸が大きくなります。
そしてこの二つの軸は、第一本宮の「前庭」で直行しています。
当時の祭儀は、主にこの第一本宮の「前庭」で行われており、当時における重要な場所であったと思われます。
以上から中世における配置は、常に神道と仏教のバランスを考え、共存することに重点を置いていると理解できます。
つまり中世においては、神道と仏教との間に整合性を持たせるために、前庭という特殊な空間が作り出されたと思われます。

【近世における住吉大社にかかわる配置分析
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 近世における住吉大社概念図


近世における配置は、中世同様、南北軸・東西軸が存在し、直交しているのは変わりませんが、古代・中世に比べ、規模が小さくなり、特に南北軸については、境内では北向き(石舞台を設置)が強く、境外では南向き(御旅所や回廊を設置)が強いという差が生じていることに特徴が見えます。
それは、近世中期の住吉大社の屏風絵が単なる景観ではなく、そこで行われている祭礼に重点が置かれて描かれているという特徴にもみられるように、住吉大社全体の威厳やバランスよりも祭儀や風俗などの道楽の方を重視しているという近世の思想によるものだと思われます。

【近代における住吉大社にかかわる配置分析
イメージ 3
               近代における住吉大社概念図
明治維新により、神宮寺が廃寺となり、正印殿住吉大社の南に位置し、大社の歴代宮司の津守氏の宅内にあった建物で、南朝の後村上天皇が行政を行った)が廃止され、近世に強まった南北軸が一気に力を失ってしまいます。
神祈に対する祭祀(さいし:神や祖先を祭ること)を古儀に服そうと、対称に絵馬殿、高庫を配することで東西軸を再び強めようとしています。
しかし、神宮寺の創建時の名残が、神宮寺跡に建てられた文華堂の方向に表れているなど、明治政府が神社を再び古来のものに戻そうとしたのにも関わらず、結局は古来のものと同じ性質にはならず、周りの影響を受けた配置になっています。

【古代から現代までの住吉大社にかかわる配置分析考察と結論
住吉三神は、古事記によると、神功皇后による三韓征伐の際、「初めて御名が表れた」と記していることから、住吉三神は三韓征伐後初めて住吉大社に祀られたことを意味しています。
盤座・山・木などの御神体がない住吉三神にとって、場所・神殿・配置に神威を持たせることが必要だったと思われることから、本宮配置には、祭神の特徴が大きく反映していると考え、祭神を通して本宮配置を考察してみました。
本宮の祭神は、
第一本宮 : 底筒之男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮 : 中筒之男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮 : 上筒之男命(なかつつのおのみこと)
第四本宮 : 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

第一〜第三本宮の祭神は三神あわせて住吉三神といい、第四本宮の祭神は、神功皇后のことです。
本宮配置は、第一〜第三本宮が東から順に西向きに直列で並んでいます。
そして第四本宮は第三本宮の南側に並列に並んでいます。
直列祭殿、二棟並列はそれぞれ、古代神殿配列の形式で、住吉大社本殿のこの配列形式は、伊勢・大洲遺跡の系統を引くものとされています。
第一〜第三本宮が、信貴山のある東の方向に第一本宮を置き、海に向かって直列に並んでいます。
第四本宮の祭神:神功皇后は、三韓征伐から帰還して後、今の住吉に住吉三神を祀った実在の人物です。
神功皇后は自ら、住吉大神と共に祭られることを願ったと言われ、第四本宮に田裳見宿禰 ( たもみのすくね もしくは手揉足如:後に住吉大社の代々の神主になる津守氏の祖)によって祭られます。
つまり、住吉大神を祭る立場だった神功皇后が、祭られる立場になったのです。
しかし、神功皇后は人々に祭られる立場をとりながらも、住吉大神とは同等ではなく、あくまでも住吉大神を祭る立場を保っています。
第四本宮の場所は、神功皇后が初めて住吉大神の顕現を仰いだところで、毎年神が降臨してくるという五所御前と第四本宮の間、つまり第二本宮の南側には、侍者社(おもとしゃ)という摂社が建っていて、それは祭神を田裳見宿禰 ( たもみのすくね もしくは手揉足如)としています。
このように、住吉大神と神功皇后を住吉の地で結縁させた田裳見宿禰 ( たもみのすくね もしくは手揉足如)という三つの関係が配置に表れているのです。
更に、この侍者社(おもとしゃ)と第二本宮を結ぶ直線上には、大海神社があります。
大海神社は、住吉大社がこの地に祭られる以前より津守氏の氏神として祭られており、創祀当時は住吉大社より大海神社が大きかったと思われます。
第二本宮と大海神社を結ぶ軸は、津守氏の私的軸と言え、北向きほど位が高くなっています。
つまり東西軸は住吉三神の軸であり、津守氏の公的軸とも言え、位は東の方向を高くしています。
また、南北の津守氏の私的軸は、北の方向を高くしています。
そして、神功皇后、住吉大神、田裳見宿禰 ( たもみのすくね もしくは手揉足如)の関係が配置に反映しており、第四本宮の位置は必然的だったと思われます。

以上、配置復元を分析したことで、各時代の配置計画には、統合観念が働いていて、各時代の外的状況によって強く影響をうけていることが分かりました。



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おはようございます、ご無沙汰しております。
休んでいたブログも再開させましたので、また以前同様によろしくお願いします。
ナイスです。

2014/10/6(月) 午前 4:53 ガラパゴス

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ガラパゴスさん
お久しぶりです。こちらこそよろしくお願いいたします。
お忙しかったのですね。 削除

2014/10/6(月) 午後 7:32 [ 上から目線 ]


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