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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜安居神社:真田雪村と祭神:菅原道真の因縁?そして粟おこし
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編  
        

もともとは少彦名神のみを御祭神としていた安居神社を紹介するブログの多くは、決まり文句のように、
「菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらった。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。安居天神社は、その道真の死後の天慶5年(942)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったという。境内には、道真も口にしたといわれる天王寺七名水のひとつ「かんしづめ(癇鎮め)の井」のほか、大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村の記念碑が建つ。」
安居神社:OSAKA-INFO 大阪観光情報の記述を紹介しています。
菅原道真と粟おこしの伝説として
延喜元年(901年)藤原時平との政争に敗れた菅原道真公が九州大宰府への左遷の道すがら浪速の里、元高津落月寺に立ち寄った時に、土地の者が、その御心情と御旅情を心からお慰めするため、当時のおこし米(現在の粟おこし)をおすすめしたといわれています。
道真公はその風味を深く賞味されて、梅鉢御紋入の衣服を土地の者に贈り、「今後は此の紋をおこしの目印として広く世に伝えよ」とおっしゃったとのこと。以後粟おこしには梅鉢の紋をつけるようになったといわれています。
とし安居神社:OSAKA-INFO 大阪観光情報の記述とは似てはいるものの少し異なり、安居神社道明寺におられた伯母覚寿尼は記述の中にありません。
おこしの歴史 - 二ッ井戸 津の清の記述の中の元高津とは、調べてみると、どうやら仁徳天皇が政治を行った高津宮の跡地=高津宮跡(たかつのみやあと)を指しているようです。
当時の高津宮があった場所については諸説あり、現在では、近年上町台地の法円坂一帯で7世紀の難波宮が発掘されており、高津の宮も法円坂周辺にあったというのが有力な説とされ、安居神社のある天王寺区とは異なります。
ちなみに、現代の高津宮(おうずぐう)という神社は、大阪市中央区高津1丁目1番29号にあります。
ただ、他の説の中に、「延喜式」神名帳の「宮中神62座」に見える神社で、現在の「坐摩神社」生国魂神社」が、元は高津宮内に祀られていたのを拠り所とし、これらの神社の旧地の位置から高津宮を「現大阪城の地」と推定する説があります。
現在、「坐摩神社」は天王寺区ではありませんが、生国魂神社」は、安居神社に程近い、大阪府大阪市天王寺区生玉町13−9にあります。
安居神社:OSAKA-INFO 大阪観光情報の記述はこの説を採用しているのかもしれませんね。
ところで、おこしの歴史 - 二ッ井戸 津の清の記述には、粟おこしの歴史が以下のように紹介されています。
【粟おこしの歴史】
「平安時代の初期に中国より「お菓子」が伝来した時に始まります。
当時、これらの輸入菓子は「唐菓子」と呼ばれ、このなかに(和名:おこし米)が含まれていました。
これこそがおこしの原形で、その後、長年に渡って日本人に合うよう改良されたのが、現在のおこしです。
1752年(宝暦2年)に現在の粟おこしの形状が確立されました。
それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状のみでした。しかも原材料は当時入手しやすかった粟や稗。
味にこだわった初代清兵衛は、原材料に米を用い、板状に延ばし、「粟おこし」と銘打って大々的に発売したのをきっかけに粟おこしは生まれたのです。
わざわざ米を砕いて、粟粒のように見せかけながらも、実は米を使っているという斬新なアイデアが人気に拍車をかけ、砂糖の消費量に至っては瀬戸内で随一であったとも言われております。
粟おこしについては、様々な歴史的書物にその存在が記されています。
まず、原形となった??(おこしめ)の製法が和名抄「931年(承平年間)の百科事典」に書かれています。
また当時、粟おこしが食べられていたことを記述している書物に古今著聞集「1254年(建長6年)橘成季著」があり、製法については和名抄「931年頃(承平年間の百科事典)」、料理物語「1643年(寛永20年)」に記述が残されています。
また和漢三才図絵「1715年(正徳5年)刊、寺島良安編」では、現在の粟おこしと同じ原理で作られていたことが分かる内容が記載されています。」と。

更に粟おこし - Wikipediaには粟おこしの縁起物としての意味などが以下のように紹介されています。
「奈良時代に糒を蜜などで固め豊作祈願として神に捧げられたものが起源とされる。 室町時代には一部の貴族などの間で食べられていた。 
豊臣秀吉大阪城築城により大阪は繁栄し「身を起こし、家を起こし、国を起こす」縁起の良い食べ物として人気を得ていった。 大阪は江戸時代は「天下の台所」と呼ばれ経済の中心地であったため、良質な米や飴などの材料が比較的安価に入手できた。このことから粟おこしの製造が盛んに行われ、大阪を代表する菓子として全国に広まった。もともとは粟が原料であったが、やがて米などをおこし種に用いるようになった
大阪の粟おこし、岩おこしには梅鉢の御紋が入れられるのが通例だが、これは太宰府に流される菅原道真が、船待ちのため(現在の大阪市上本町辺りで)休憩していた時に、同情した老婆が菓子を献上すると、菅家の梅鉢の御紋が入った自分の着物の袖を老婆に与えて、感謝したことが始まりとされる。 また旧陸軍の第四師団で、非常食として珍重されていたことでも有名である。」と

これで他のブログとは異なった安居神社についての内容になりましたが、
私は更に菅原道真と真田雪村に因縁めいた共通項があることに気がつきました。
御祭神となられた菅原道真は、安居神社:OSAKA-INFO 大阪観光情報の記述で菅原道真は、道明寺の叔母を尋ねて行く途中に安居神社立ち寄ったとされ、井(休憩)した事と、四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することに、安居神社の名の由来があると紹介しています。恐らく菅原道真は、四天王寺にも立ち寄ったのではないでしょうか。

対して真田雪村は、大阪夏の陣で、道明寺の合戦にて伊達政宗と戦い、翌日の最終決戦:四天王寺
口の合戦において激烈な戦いを繰り返し、ついに安居神社で討たれます。
菅原道真真田雪村の二人は、道明寺・四天王寺・安居神社の三つの地にゆかりがあるようです。
偶然にしては出来すぎている気がしませんか?

御祭神である少彦名神菅原道真の異端の能力が、雪村をここ安居神社を終焉の地として招き寄せたのでしょうか?

お待たせしました。次回より明日香村についてのページを紹介して行きたいと思います。

イメージ 1
絵馬には六文銭と馬に乗る雪村と大阪城が
御祭神より真田雪村なんですね。参拝者にアピールできるのは。

イメージ 2
2016年の新春から放映が決まったNHKの大河ドラマ『真田丸』のポスター
安居神社の社務所の壁に貼ってありました。

イメージ 3
鳥居の上部中央には、天神と菅原道真の紋:梅鉢があります。
この画像の奥に小さく見える鳥居が下の画像の鳥居です。

イメージ 4
二つ目の鳥居
この鳥居の向こうに境内へと登る石段があり、茶臼山という高台に神社があることがよく分かります。

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