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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜明日香村:誰もが知る『亀石』、そして謎解き
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  
       

明日香村の石造物               
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益田岩船を上から撮影した 超絶景  酒船石は庭園の 水遊び装置だった
命の源は流れ出て二つの酒船石へと酒船石遺跡の小判形と亀形の石造物
噴水として作られた石造物 石人像  形は陽石のような噴水石 須弥山石
田から掘出され天皇陵へそして 猿石 橘寺と高取城跡にもある 2つの猿石
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まずは画像をご覧下さい。

イメージ 1
彼岸過ぎのこの日、亀石のかたわらには、鮮やかな彼岸花が、


イメージ 2
亀石?どう見てもカエルの目でしょ。

イメージ 3
亀石はこんなところに有ります。
高さ4メートルから撮影
右下に写る方は、自転車とカメラの共通項で現地でお話を交わした方で、
フランス製の15万円以上の折りたたみ自転車で現地を回っておられました。

イメージ 4
亀石はこんなところに有ります。
高さ6メートルから撮影
亀石のある場所を説明する画像としては、
9メートルの高さまでカメラを上げる必要性はないと判断。
左下に移る波板屋根の下では、現地の方のつくられた農作物が無人で売られていました。

イメージ 5
飛鳥資料館にある『
亀石
』のレプリカ
人目線で撮影
本物より滑らかな岩肌で、大きく見えますね。地面に埋まっていない部分も見えるからかな?

イメージ 6
飛鳥資料館にある『
亀石
』のレプリカ
本物では写さなかった後姿の様子です。

私のように、考古学に興味のなかった一般的な者にとって、明日香村の石造物といえば、真っ先に思い浮かべる物の一つに上げられるのが、今回ご紹介する亀石ではないでしょうか。

そもそも明日香村の名の由来は、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来するといいます。
そして飛鳥といえば石、亀石に限らず、明日香村には他にも多くの石造物があり、多くは7世紀(西暦600年代)につくられたものらしいのですが、誰が、何時、何のためにつくったのかわからいものがほとんどです。
技術革新が秒単位で進歩して行く科学万能の昨今にあって、こうした石造物が謎だらけだからこそ、現代人の心を捉えて離さないのでしょう。

亀石に伝説があります。
その昔、奈良盆地が池だった時に、 川原の鯰と当麻の蛇が池の水をめぐって争いました。鯰が負けて池の水を蛇に取られてしまったのです。そのため、多くの亀が干上がって死んでしまったそうです。 その亀達の霊を慰めるために、この亀石が作られたといいます。そしてこの先、亀石が当麻の方向(西)を向くことがあったなら、奈良盆地は再び池になってしまうそうです。
一言:これって現代を古代に戻すゲートの鍵のようなものでしょうか)

亀石は、昔から亀を象ったものとされ、 広くその名で親しまれています。
しかし本当に亀の造形なのでしょうか。私のようにカエルに見える人も少なくないのでは?
そしてこの亀石は、奈良県明日香村川原にあります。
上記の伝説のように、その場所や方向に意味があるものだとしたら、 きっと造形にも意味があるはずです。
亀石は、本当に不思議な形をしています。現代人から見ても、まるで異次元の存在を想像してしまう造形です。
 しかし、この「カメ」を同時に「カミ(神)」であるとする説があり、同様の意味を持ったカメ石やオカメ石が日本の各地に多く残っていることも、この石の名を亀石と呼ぶ根拠の一つとされています。 
亀石が明日香村の「川原」という場所にあることも、意味深です。

また、亀石の謎 では、以下のような論を展開しています。
 そうした地名を仮に、 太陽崇拝に関わる祭儀に、亀の造形が主要な役割をつとめる南国の風習が日本に伝来したとすると、 大きな海亀を見たことのない内陸の人間にとって、それは想像の動物として増幅され、 飛鳥の亀石のような姿と大きさを与えられる結果となったのかもしれません。彼らにとってのカメ石とは、 日常的に馴染みのある川亀とは姿も形も異なったカミ石となり、不思議な姿形をした亀形の巨石はそうしたルーツをもつものではなかったかと考えられています。
では、この「亀石」は、果たしてそのような「カミ石」だったのでしょうか?
そして亀石の置かれた場所には、どのような意味があるのでしょうか。

飛鳥と檜隈(ひのくま)地域を、その用途として区分すると、寺院や宮殿、つまり現世の人々の活躍する地域と、 斉明天皇以後の「殯の宮」となる地域に分けて考えることができる、という説を唱える研究者がいます。檜隈地域を墳墓の地域とし、 更に、それを百済の影響で、百済の王家の墳墓を模して造ろうとしたのが、斉明天皇であるというのです。 これは、当地を天皇家にとっての黄泉の世界とし、 その東南に宮殿や寺院の現世の世界を配してたものとの説です。そして、この二つの世界の境に猿石や亀石を設置し、 現世の地域と来世の地域を画する結界の場所を示すために、黄泉の国との境を示すものとしてつくられたと考えらている説があります。
境界の標識として亀、蛇、蛙、男女神像などを立てる習俗は、ギリシア、ペルシア、インドなどにも見られるもので、 フレーザーの『金枝篇』によると、各地の古代民族にも、このような風習があったことから、飛鳥の石造物にも、 そのような意味があるのだろうと。

しかし、標識に亀石のような大きな石造物を使う必要があったのでしょうか?
標識として使うならば、せいぜい道祖神ほどの大きさで十分です。どう考えても標識と考えるには大きすぎるような気がします。 
結論を先に言えば、亀石がやはりペルシャと関係があると思えるのです。亀石をよーく今一度観察してみてください。 これに似た石造物を見たことがありますか?おそらく他に考え付かないでしょう.

ペルシャ方面から中国、朝鮮半島を経由して日本へ伝わったものは、意外にたくさんあります。 ペルセポリスのライオン像は、シルクロードを通って、中国で唐獅子になり、 朝鮮半島では、狛(高麗)犬になって、双方共に日本へ伝わりました。現在でも、神社へ行けば、 この種の石造物をたくさん目にすることができます。
おそらく亀石は、唐獅子や狛犬よりも以前に日本へ伝わったものだと思います。しかし定着しませんでした。なぜか? やはり日本人には馴染めなかったのでしょう。唐獅子や狛犬は日本で定着しました。その当時の日本人はライオンを見ていませんから、 これらの石像は犬のイメージとして受け入れられたのだと思います。しかし、亀石は唐獅子や狛犬と違い、ちょっと奇妙な印象を与えます。
亀石の謎の管理人は、亀石は亀をかたちどったものではないと見ています。
では一体亀石は何なのでしょう。
ペルシャ人の石工が、ペルセポリスのグリフィンをヒントにして蘇我氏のために石像を作ったのではないか。と見ています。 おそらく完成した暁には下に示すようなものが出来上がっていたかもしれません。

グリフィン頭部の画像

同じような目的でペルシャ人の石工か、あるいは彼の指導を受けた倭人が蘇我氏のためにグリフィンに似せて造った石像が、 現在私たちが「亀石」と呼ぶものです。もちろん、 この「亀石」は蘇我氏の威容と権威を訪れる人たちに見せつけようとした舞台装置だったでしょう。しかし、蘇我氏本宗家は蘇我入鹿 が中大兄皇子と中臣鎌足に殺されることにより滅びます。
そしてこの政変により製作途中の「亀石」も、 その時にスポンサーを失って未完成のままに投げ出されたわけです。

蘇我氏というのは、ご存知の通り渡来人の文化や技術を積極的に導入することによって勢力を伸ばし、 結局、政治の実権を握りました。しかし、この当時の豪族たちは誰もが競って大陸や半島の文化や技術を導入しようとしました。 中臣氏は大和古来の旧氏族です。古くからの神道を守ってきた家系です。 中臣鎌足は父親が百済から来たのですが、 婚姻によって、 中臣氏に合流しました。しかし結局仏教を導入しなければならないことに気づいて、中臣氏とは袖を分かち、新たに藤原氏を創設して 仏教を利用して、蘇我氏がやってきたような政治を行ってゆきます。
中臣鎌足も中大兄皇子も大陸文化や技術を無視しようとはしていません。むしろ積極的に受け入れてゆきました。 しかし、蘇我氏の受け入れ方があまりに激しいので、拒否反応を起こしたようです。中国の文化まではよかったのでしょうが、 ペルシャの文化まで受け入れようとすると、抵抗にあったようです。特に、なんだかわけの分からない「亀石」のようなものを作って庭に置くことは、 ますます諸豪族の、少なくとも中臣鎌足と中大兄皇子の目には、海外文化の受け入れのやりすぎと映ったようです。
蘇我氏が、利用できるものならば、国の別を考えずになんでも取り入れようとしたことは、よく知られています。 従って、日本へやって来た渡来人の多くが蘇我氏を頼りました。そのようにして蘇我氏は勢力を伸ばしたわけです。 
ペルシャ人もそのような渡来人の中に含まれていました。
聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのか?ここでちょっと話題が飛躍しますが、 ちょうど「亀石」がスポンサーを失って放り出されたのとよく似ています。聖徳太子の母親にはペルシャ人の血が流れていました。 聖徳太子の叔母である推古天皇はそのことを毛嫌いしたようです。それで、太子の才能を認めて、 摂政にはしたけれど、天皇の座を譲ろうとはしませんでした。
いずれにしても「亀石」は未完成のままに放りださてしまいました。ペルシャの文化や芸術までも受け入れようとした蘇我氏も、また、 グリフィンのような、なんだかわけの分からない石造物も、結局日本の土壌には根付かなかったようです。
しかし、ペルシャの痕跡が全く拭い去られてしまったかというと、そういうわけではありません。

ペルシャのグリフィンは双頭です。

しかし、ペルシャの痕跡が全く拭い去られてしまったかというと、そういうわけではありません。上のグリフィンの写真を見て分かるとおり、 柱をはさんで背中合せになっていますが、柱を除けば直接背中合せとなり、この彫刻の様式は人物像として受け継がれ、飛鳥の石人男女像や二面石という形で引き継がれてゆきます。
以上が亀石の謎の記述です。

随分飛躍した突拍子もない説のようですが、飛鳥時代の頃には多くの渡来人が日本においてスーパーテクノロジー集団となって帰化した時代です。
空想に過ぎる説だとは、決して思いませんが、皆さんはどう思われますか?

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