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〜明日香村:蘇我入鹿首塚に可憐な花〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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国賊として大化の改新前日に正義の味方=中大兄皇子・中臣鎌足に首を討たれた蘇我入鹿の首は、無念の思いのあまりに、飛鳥宮から遠く離れた飛鳥寺に隣接するこの地まで飛んできたとも、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたとも言われるのが蘇我入鹿首塚です。
ですが果たして蘇我入鹿の悪役説を私たちは本当に信じていいのでしょうか?
現代に生きる私は、決して今日の天皇家の存在を否定するものではありませんし、今の政治家や官僚が国民の血税を吸い上げて、権力闘争・既得特権・公金横領などに走る世にあって、権力から一歩引いた立場で国事行為を行う国家の象徴としての立場は、外交面においても否定すべき存在ではないと思います。
しかし、古事記や日本書紀は、言ってしまえば飛鳥時代以後、常に時の権力者もしくは権力者の裏付けとなる地位にあった天皇家の権威を絶対的なものにするために書かれた文献です。
言い換えれば、天皇家にとって不都合な事は書かない、もしくは事実を曲げて書かれた文面に終始しているものだと言ってもいいかもしれません。
そんな日本書紀の中で歴史上稀に見る悪役として描かれているのが蘇我入鹿・蘇我蝦夷の親子です。
(一言:入鹿の父:蘇我蝦夷は、入鹿が殺害されたことで自身の身体も極まったのでしょうか、自宅に火を放ち自殺とされます。あくまでも記録に残る史実ですので、事実ではないかもしれませんが、・・・・たとえば、自殺を装った暗殺だったとか。)
天皇家をしのぐまでの権力を誇っていた蘇我一族は、次期天皇のポジションにあった中大兄皇子にとっては、目の上のタンコブどころではない脅威の存在でした。
だからこそ、中大兄皇子は中臣鎌足(後の藤原鎌足)という協力者を得て乙巳の変において中大兄皇子を母である第35代皇極天皇及び第37代斉明天皇の間に在位した孝徳天皇の御前において殺害し、その後蘇我宗家を滅亡させます。
そして曽我氏が行っていた先進的な政治手法をとり入れつつ律令制による天皇を中心とした中央集権国家を樹立。クーデターの協力者だった中臣鎌足(後の藤原鎌足)の一族:藤原氏は、その後1200年以上もの間、廷臣の一大勢力として君臨するのです。
つまり、蘇我入鹿を極悪人とした正史=日本書紀の記述をまともに信じてはいけないのです。事実、現代においては、蘇我入鹿に対するこれまでの評価を見直す動きが多く見られるのです。
蘇我入鹿 - Wikipediaによれば、
『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが窺える。 入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。
また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある。
と記しています。
他にも以下のような入鹿の悪役説に異論を唱えるページは少なくありません。
私たちは、歴史とは常に時の権力者によって書き換えられるものだということを、理解しておく必要があるでしょう。
【ちょっと豆知識】
首塚とは戦死者や処刑者など、非業の死を受けた者の首を埋め、その魂を弔った塚のことで、塚は本来土を小高く盛って築いた墓のことでした。念のため入鹿の胴体を弔った場所がどこかにないかと検索してみましたが、ノーヒットでした。やはり多くの斬首者と同様に何の弔いもなく、破棄されたのでしょう。
ところで、蘇我入鹿の首塚と伝えられる場所は幾つもあるようです。例えば三重県松坂市飯高町舟戸にも。なぜ飛鳥の都より遠く離れた三重に首塚があるのでしょう?
斬首された者の首の意識は暫くあるといわれます。首のみとなった入鹿は薄れ行く意識の中で自身の無念を伝える念を各地に飛ばしたのでしょう?・・・・・・かもね。
蘇我入鹿首塚
蘇我入鹿首塚
時の権力者によって後世にまで最悪の悪役として伝えられる入鹿ですが、
彼が国に貢献したことは少なくありません。綺麗な花を手向けましょうね。お供え物もね。
ちなみに、遠くに見える小高い丘=「甘樫丘」に蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があったそうです。
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