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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜明日香村:大将軍 大伴御行(みゆき)の歌と人物像に偏見あり
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  
       

−飛鳥坐神社にある歌碑−              
明日香の今昔を詠った都は今里山に 神主が神を祭る様子の万葉歌髪飾り
好き嫌いで言えば嫌い大伴御行の歌  大和朝廷の中心に位置 三諸山の歌
 祖父が飛鳥座神社の出自 折口の歌                                             
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飛鳥坐神社お守りは秘密  子宝祈願  明事代主神は大黒様の子 戎っさん
神様がそんなことするの? 大物主神 出雲国 大国主命の子 飛鳥の守り神
天照大神と同格  高皇産霊神と皇室   皇室ゆかりの元伊勢とは? 奥の社
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●その他 明日香村のページ●            
明日香村に行きました  予告編です 宮跡のほんの一部 伝飛鳥板蓋宮跡
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明日香村の石造物                
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諸説あるけれども  亀石の謎を解く  なぞの益田岩船  松本清張の仮説
益田岩船を上から撮影した 超絶景  酒船石は庭園の 水遊び装置だった
命の源は流れ出て二つの酒船石へと酒船石遺跡の小判形と亀形の石造物
噴水として作られた石造物 石人像  形は陽石のような噴水石 須弥山石
田から掘出され天皇陵へそして 猿石 橘寺と高取城跡にもある 2つの猿石
神社にわらじ奉納の理由 自利利                                           

今回ご紹介する万葉和歌は、天皇に次ぐ地位にまで上り詰めた豪族の詠んだ万葉歌です。
なので先入観をもってご紹介することをお許しください。
〔原文
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都 
大将軍贈右大臣大伴卿作

大君は 神にし坐(ま)せば 赤駒の 
匍匐(はらば)ふ田井を 都となしつ
  大伴御行(みゆき) 
〔大意〕
天皇は神でいらっしゃるので、赤駒が腹ばうような田を都としてしまわれた。

一言:こんな事を言ってしまうとなんですが、この歌って、高い評価に値する歌なのでようか?歌の表現力については私の理解できるものではありませんが、要は天皇に対するヨイショを歌にしているとしか・・・・。生意気で御免なさいです。)

憎まれ口を言う限りは、その人物像もご紹介しておく必要があると思います。

大伴御行(おおとも の みゆとは】
日本の飛鳥時代豪族(かばね)後に宿禰(すくね)右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言正広弐・右大臣。
『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」のモデルといわれる。
一言:この時点で嫌な奴の臭いがすると思うのは、私だけ?『竹取物語』は作り話でしょうが、かぐや姫に求婚する4人の貴公子のうち、龍の首にかかる五色の光る玉を求められたのですが、どうせ自身で探そうとはせず、家臣に命令して探しただけでしょう。)
天武天皇の時代
672年の壬申の乱では大海人皇子(後の天武天皇)側にたって戦ったが、具体的な活動内容は不明。この乱では大伴馬来田が大海人皇子に従っておそらく美濃国まで行き、大伴吹負大和国方面の軍の指揮をとる将軍になるなど、大伴一族の名が多く残ることから、御行も同族の一員として一部隊の指揮官になったと考えられているそうです。
ちなみに、大伴氏大伴馬来田の兄長徳孝徳天皇につかえて重職にあったが、651年長徳が亡くなってから大伴馬来田遇でした。そのため壬申の乱の前に馬来田は病気を称して都から退き、弟の吹負とともに倭(大和国)の自宅にいたそうです。
彼等は次の天皇は吉野宮にいる大海人皇子(のち天武天皇だろうと考えていたと考えられています。
6月24日に大海人皇子が挙兵を決意して行動を起こすと、馬来田らは大海人皇子に味方することを決めた。吹負は大和に残って同志を募り、大伴馬来田はまず吉野宮に行きます。
しかし大海人皇子は去った後で、馬来田は黄書大伴(きふみ の おおとも:大伴一族ではない渡来系の氏族とともに皇子を追い、その日のうちに現在の大和国宇陀郡の吾城で追いついた。黄書大伴はこの日に倭京(飛鳥の古都)に使者にたって戻るところで、どの時点で馬来田と会ったかは『日本書紀に明記されていないそうですが、大伴兄弟に事を知らせた当人である可能性が高とか。
一言:この大伴馬来田 - Wikipediaの中の記述から、大伴馬来田は先見の明がある人物で、大伴吹負は将軍として優れていたことが伺えます。ところが、大伴馬来田はこの後も多大な功績を残したはずなのに、晩年の処遇は恵まれず、他の大伴一族に比しても記録が少ないそうです。詳しくは大伴馬来田 - Wikipediaをご覧いただきたいのですが、この人物こそ出世してしかるべきで、大伴御行はずる賢く他の大伴一族の功績を我が物としたとすら思えます。たった一つの歌から受ける印象を引きずった私の偏見でしょうか?ただし、大伴馬来田はその死後に、惜しむべき人物として天武天皇により厚い礼遇をもって葬られていることがせめてもの救いです。
乱後、大伴御行は功績により100戸の封戸(ふこ)を与えられます。『万葉集』で御行が「大将軍」と記されるのも、この乱で顕著な功績を立てたためではないかとの説がある一方で、御行の戦功はそれほどでもなく、彼に対する賞は大伴吹負ら大伴氏全体の功に対する部分が大きいと見る説もあるとか
天武天皇4年(675年)に、小錦上大伴御行兵政官大輔に任命され、天武天皇13年(684年)に一族とともに宿禰の姓を与えられます。
天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿(天皇の御座がある)で博打をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。大伴宿禰御行はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人のうちにあった。
688年11月11日、前年に死んだ天武天皇が大内陵に葬られたとき、大伴宿禰御行は布勢御主人(阿倍御主人)とともに死者の生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べるほどの権勢を得ていました
持統天皇の時代
天武天皇の代に御行の地位は官人の中では中級にとどまっていたが、持統天皇の代には、高市皇子多治比島に次ぎ、布勢御主人(阿倍御主人)と並ぶ高い地位に上った。
持統天皇8年(694年)1月2日に、布勢御主人とともに正広肆(従三位に相当)に位を進め、200戸を増して前のものとあわせて500戸となり、氏上(土地と氏に隷属する部民(べみん)を管理し,氏を代表して朝政に参与して氏・姓(かばね)を与えられた。氏のおさとされます。
一言:トントン拍子で出世したということです。大伴馬来田の先見の明や、他の大伴一族の功績の上に
文武天皇の時代
高市皇子が持統天皇10年(696年)に死んでから、多治比島が文武天皇の下での議政官の首座となったが、大伴御行は大納言として島に次ぐ地位にあった。
一言大伴御行が天皇の下で議政官のナンバー2に上り詰めたと言うことです。
時期が不明だが、御行は精錬の専門家(三田五瀬)を対馬国)に遣わして金を精錬させた。
『公卿補任』によれば、大伴御行は1月5日に大納言に任命され、同日に正三位に叙された。
同書によれば、大納言・正広参の大伴御行は1月15日に56歳で死亡し、正広弐・右大臣を贈られます。ところが、正三位は大宝令以後の位なのに、贈位では大宝令以前の正広弐に戻っており、錯綜がある。『続日本紀』は1月5日の任官を記していないそうです。
天皇ははなはだ惜しみ、榎井倭麻呂らを遣わし葬儀を護らせた。また藤原不比等らを御行の邸に遣わし、詔を伝え、正広弐・右大臣を贈った。
18日には御行の喪のために大射(功績に対する恩賞を与える場の前の射的の儀)をやめた。続紀は大宝令による官位の実施を大伴御行の死後、この年3月とする。
大伴御行の死後、対馬産金の関係者に賞があり、大宝元年(701年)8月7日に大伴御行の子に封100戸と田40町が与えられた。だが後に、これが三田五瀬の詐欺(さぎ)で、御行はだまされていたことが判明した。
一言:上記の記述を見る限り、三田五瀬は主君をだました悪人ということになります。
しかし、三田五瀬 1三田五瀬 2 には、真実か否かは不明ながら、大伴御行三田五瀬を派遣する経緯を物語として紹介しています。権力者とは皆そうなのかもしれませんが、大伴御行三田五瀬に騙されて当然の人物として描かれているように思われます。

という訳で、作者の大伴御行は646(大化2)年生まれ。壬申の乱から大海人皇子(天武天皇)に従って戦った股肱(ここう:手足となって働いた)の臣で、最終的には大納言から右大臣にまで昇進しますが、御行大宝律令の制定された大宝元年に死亡し、施行はその後でした。
一言:結局何が言いたいか?と言うと、私はこの歌と作者を好きなれないということかな?)

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