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〜明日香村:祖父が明日香坐神社の出自であることを誇り、詠った歌〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
今回ご紹介する歌は、祖父が飛鳥坐神社の神主のもとに養子縁組をしたことを誇りに思っていた折口信夫(おりくち しのぶ)が詠んだ歌です。ですから、以下にご紹介する歌は、明日香=心の故郷としての思いが強く反映された歌になっています。このことを念頭に歌をご覧ください。
歌碑をクローズアップしてみても、私には何が書いてあるのかほとんど理解できませんでした。
ただ、説明札にある折口 信夫の名を手がかりに調べた結果、以下の歌が刻まれていることを知ったのです。お恥ずかしいことです。
(一言:文頭の2文字は、「何年」に見えたのですがね、「ほす」だとは・・・・。トホホーッ。)
ほすすきに 夕雲ひくき 明日香野や わがふるさとは 灯をともしけり
迢空(折口 信夫)
(私の解釈)
穂の出たススキに、夕雲が低くたなびく明日香野に、我ふるさとの灯がともっているのが見えます。
(一言:文字そのままの解釈で恐縮ですが、詠み人の迢空こと折口 信夫は、そんな昔ながらの自然とそれに調和したたたずまいを見せる故郷の集落をこよなく愛していたのでしょう。)
【折口 信夫と飛鳥坐神社のかかわり】飛鳥坐神社 - Wikipediaによれば、折口信夫の祖父酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、当社81代宮司飛鳥助信の養子となった上で折口家に入った。父・秀太郎の代には交流は途絶えていたが、明治33年(1900年)夏に初めて当社に参詣し、同37年には祖母つた・叔母えいと共に参詣し旧交を復した。折口は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを終生誇りにしており、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅している。
【折口 信夫(おりくち しのぶ)とは】
大阪府西成(にしなり)郡木津村(現大阪市浪速(なにわ)区)に生まれる。
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。
生家は医者と生薬(きぐすり)・雑貨を売る商家を兼ねていた。
1905年(明治38)天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。
中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉(ゆうきち)らとともに短歌創作に励む。国学院では国学者三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京、国文学の研究と短歌の創作に情熱を注ぐ。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
また民俗学者柳田国男(やなぎたくにお)を知って、深い影響を受け、進むべき学の方途をみいだした。19年(大正8)国学院大学講師となり、のち教授として終生国学院の教職にあった。
20年中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行、21年『アララギ』を退会、この年と23年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行。折口の古代研究の学は、この時期の採訪旅行によって開眼した。
1923年慶応義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤続する。
24年、前年に没した三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講、またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋(はくしゅう)らの短歌雑誌『日光』に同人として参加。26年長野県・愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。30年(昭和5)とその翌年、東北地方各地を旅する。32年文学博士となる。
44年門弟藤井春洋(はるみ)を養嗣子(ようしし)としたが、翌年硫黄(いおう)島で戦死。
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