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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜明日香村 飛鳥坐神社八十萬神社は、皇室守護の神々を祀る
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  
       

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田から掘出され天皇陵へそして 猿石 橘寺と高取城跡にもある 2つの猿石
神社にわらじ奉納の理由 自利利                                           

神の社に対して失礼な言い方になるかもしれませんが、
飛鳥坐神社にある八十萬神社は、今で言う二階建てのマンション風で、さほど重要でないご祭神が祭られているとは思えず、一見すると摂社末社として、他の神社のご祭神をまとめてお祀りしているようにしか見えません。
しかし、実際は飛鳥坐神社に無くてはならないとても重要な社(やしろ)なのです。
飛鳥坐神社八十萬神社に対する説明は、
「大国主神が国譲り給へる時、飛鳥ノ神(八重事代主命)は八十万の神を合(あつ)め師(ひき)ゐて天高市(飛鳥ノ賀美郷)に鎮まり給ひました」
と記されているのみです。
これは何を語る文章なのでしょう?
飛鳥坐神社の起源についての説明では、
「当社は、大国主神が国土を天孫にお譲りになる際、わが子・事代主神とその妹とされる賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の神霊を、皇室の守護神として奉斎(神仏をつつしんで祀(まつ)ること。つつしみきよめて祀ること。)されたとになる。」
とあります。

つまり、飛鳥坐神社八十萬神社に対する説明は、
大国主神が国土を天孫にお譲りになる際、大国主神子である事代主神を始めとする神々を天孫ニニギ守護神としてその神霊を祭らせ、
その際に皇室守護の神として、事代主神とその妹神とされる賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の神霊を奉斎(みきよめてお祀り)されたことを示しており、この事こそが飛鳥坐神社の起源とされてることを、記紀神話に沿って説明したものです。

文献による飛鳥坐神社の初見は、朱鳥元(686)年7月の『日本書紀』で
「奉幣 於居紀伊国国懸社 飛鳥四社 住吉大社」とあります。
これは天武天皇の病気平癒の祈願のため、国懸神社(くにかかすじんじゃ)と住吉大社とともに幣帛(へいはく:神道の祭祀において神に奉献する、神饌(しんせん:日本の神社や神棚に供える供物)以外のものの総称が奉られたものとされ、平安期の書物『日本紀略』には
天長6(829)年3月に「賀美郷甘奈備山飛鳥社同郡同郷鳥形山遷依神託也」
とありこの時に現在地に遷座したそうです。
ちなみに、飛鳥坐神社が近世に元伊勢と称していたのは、現在地に遷座する
以前に同地が天照大神を一時お祀りしていたとの伝承に由来するとされているのですが、その場所に関しては諸説あって判然としないそうです。

先代旧事本紀には、『大己貴神(大国主神)は高津姫神を娶って一男一女を生み、その御子神である事代主神が、高市社である甘南備飛鳥社に鎮座されている』と記載されています。
 なお高市とは、“うてなの斎場(イツニワ)”と呼ばれ、“小高い所にあるマツリの庭”を意味するといわれています。
日本紀略によれば、天長6年(819)高市郡賀美郷にある神奈備山から、同郡同郷である現在飛鳥坐神社があるこの地=鳥形山に、神託によって遷座されたと記載されています。

ただし、由緒冒頭にいう事代主命の事蹟については、次の疑問があるそうです。
 ・“事代主は大国主の第一子”というが、記紀によれば異母兄・アジスキタカヒコネがみえ、コトシロヌシは第二子と解される。
 ・“国譲りの際に父神のご相談にのられた”というが、コトシロヌシが神意を告げる託宣の神であることから、父・オオクニヌシに変わって国譲りの使者への返事をしたということで、相談に乗られたというのではニュアンスが異なる。
 ・“八百万の神を率いて高市に集まり”というのは、書紀の、国譲りによって帰順した神々の頭領として、オオモノヌシとともに八百万の神々を天高市に集め、それを率いて誠の心を披瀝したという記述をうけたものだろうが、同じ高市でも、書紀にいうのは天の高市で、これを大和の高市に充てるのは疑問。

また由緒・HPともに、当社の創建由緒を先代旧事本紀(9世紀前半頃、物部氏系史書、以下“旧事本紀”という)に求めているが、いささか勝手読みがある。
 ・旧事本紀にいう「事代主命 坐倭国高市郡高市社 亦云甘南備飛鳥社」を、素直に読めば「コトシロヌシは大和国高市郡の高市社に坐す、また甘南備飛鳥社(に坐す)ともいう」であって、高市郡高市社と甘南備飛鳥社は別々の神社と読むのが順当だが、由緒では高市社と甘南備飛鳥社を同じと読み、HPでは高市社を無視している。
 ・この両社について、旧事本紀に先行する出雲国造神賀詞(イズモクニノミヤツコノカンヨゴト、新任の出雲国造が朝廷に参向して奏上する寿祠、族日本紀・元正天皇霊貴2年-716-が初見)には、
   己(オオナムチ)の和魂(ニギタマ)を八咫鏡に取り付けて、大物主命と称へて、大御和(大三輪)の神奈備に坐(マ)
   己の御子・阿遅須伎高孫根命(アジスキタカヒコネ)の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
   事代主命の御魂を宇奈提(ウナデ)に坐せ
   賀夜奈流御命(カヤナルミ)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて
   皇孫命の近き守神と貢り置きて・・・
とあり、オオナムチ(オオクニヌシ)が己の和魂および御子神3神の御霊を天皇の守護神として飛鳥の周囲4ヶ所に鎮座させたとあり
 ・一般に、この4ヶ所の鎮座地として次の4社を指す。
   大御和の神奈備−−現大神神社(桜井市三輪)に比定
   葛木の鴨の神奈備−−現高鴨神社(御所市鴨神)に比定
   宇奈提−−現川俣神社(式内・高市御県坐鴨事代主神社、橿原市雲梯町)に比定
   飛鳥の神奈備−−賀美郷甘南備山飛鳥社(比定地は下記)−−当社の前身に比定

また、書紀・天武天皇即位前紀に、
(天武軍が金綱井-カナツナノイ-に集結したとき)高市郡大領の高市県主許梅(コメ)が神懸かりして、『吾は高市社にいる事代主神なり。また身狭社(ムサ・牟佐社)にいる生霊神(イクタマ)なり。神武天皇の山稜に馬及び様々の兵器を奉れ。
 吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて還る。今も亦、官軍(ミイクサ)の中に立ちて守護りまつる』と告げた」
とあり、コトシロヌシ自らが“高市社にいる”といっている。

これらからみると、コトシロヌシは高市社にすなわち現橿原市雲梯町(ウナデ)にある式内・高市御県坐鴨事代主神社(現川俣神社)に坐す神で、甘南備山飛鳥社に坐す神はカヤナルミ命であって、
・日本紀略に、
「神託に依って、賀美郷の甘南備山飛鳥社を同郷鳥形山に遷す」とあることから、当社の前身はカヤナルミ命を祀る賀美郷甘南備山飛鳥社とみるべきであろう。

なお、飛鳥社旧鎮座地という賀美郷甘南備山の所在地については諸説がある。主なものとして
・雷丘(イカヅチオカ)説−−当社の西北約700mの明日香村雷(イカツチ・飛鳥川右岸)
・天神山説−−当社の南約200m(酒船石の北辺り)
     (江戸時代の木版画に飛鳥坐神社の御旅所とあり、この地を当社の前身とするものらしいが、この御旅所は飛鳥山口坐神社の旧社地とする説もある−下記)
・ミハ山説−−当社の南約1.8km、明日香村橘と同稲淵の境界付近(飛鳥歴史公園祝戸地区付近か)
・南淵山説−−当社の南約3km、明日香村稲淵(飛鳥川上流部、大和志には“南淵山・稲淵村に在り”とあるが、その場所は不詳)
などがあるが、いずれも確証はない。
これらのうちで、雷丘説は江戸時代からあったようで、古事記伝(本居宣長・1798-江
戸中期)には、
「此山を神山とも雷ノ岳とも云て、今も雷村(イカヅチヤマ)と云処、飛鳥川にそひたる里にて小山あり。飛鳥の社は、もと此処に坐しけるなり」
とある。

当社(飛鳥社)の旧地は、日本紀略の記述からみて現明日香村の辺りに求めるべきだろうが、今、この辺りに賀美との地名は見当たらず(大和志村里条にも賀美の名はない)、賀美郷がどの辺りを指すのかはっきりしない。

なお、今、明日香村稲淵から南へ飛鳥川を遡った栢森(カヤノモリ、当社の南南東約4.5km))地区に式内・加夜奈留美命神社があり、資料によれば、鳥形山へ分霊遷座した際、主神であるカヤナルミの神霊を旧地に留めたものといわれ、この神社が甘南備山飛鳥社ではないかという。
しかし、この社は江戸時代までは葛神と称していた神社であって、大和志(1734)の編者(並河誠所)が、栢森を加夜の森(いずれもカヤノモリ)と理解し、カヤという地名から式内・加夜奈留美命神社に比定したものといわれ、この地が加夜奈留美神社本来の鎮座地とは見なせないという(明治なって富岡鉄斎が再興したともいう)
因みに、古事記伝は、栢森の地が加夜名流美命神社すなわち甘南備山飛鳥社の旧社地であることを否定している。

これらからみて、飛鳥坐神社は淳和天皇・天長6年に賀美郷甘南備山から遷座した神社で、オオナムチ命(オオクニヌシ)が天皇の守護神として娘・カヤナルミを飛鳥の神奈備に鎮座させたのが、当初の姿といえる。

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八十萬神社(やそよろずのかみのやしろ)

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