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〜明日香村 高松塚古墳:考古学ブームの火付け役、発見当時は・・・〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
飛鳥(あすか)は現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥あたりに相当し、この辺りに宮・都が置かれていたことから、飛鳥時代と呼ばれています。
当時、飛鳥という地名は、大阪府羽曳野市及び太子町あたりを指す地域にもあったため、2つの飛鳥を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「近つ飛鳥」「河内飛鳥」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」とよばれます。
この場合の「近つ」、「遠つ」は都があった難波宮(大阪市中央区)からみてちかいかとおいかによるものです。
という訳で、明日香村の飛鳥は、厳密には大和飛鳥と呼ばれます。
飛鳥時代は狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間をさしますが、広義には、592年からの豊浦宮(とゆらのみや)のあった時期も飛鳥時代草創期として含まれ、古墳時代の終末期と重なります。
終末期の古墳は、大阪府堺市にある伝仁徳天皇陵に代表される古墳時代中期の巨大な前方後円墳は造られなくなり、比較的小規模な方墳や円墳となります。
今回ご紹介する高松塚古墳は、藤原京(694年〜710年)の時期に築造された終末期古墳の代表的なもので、明日香村にあって誰もが知る存在であり、1972年に極彩色の壁画が発見されたことで考古学ブームの火付け役となりました。
高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。
発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことによります。
地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになったのです。
発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環にすぎなかったのです。
ところが、極彩色の壁画が見つかり、当時の紙面やテレビによって連日のように報道されました。
この発見につながった1970年は、大阪府吹田市千里丘において日本万国博覧会が開催され、日本全体が未来に夢をはせる中で、その2年後の大発見は、対極の古代遺跡のロマンが日本列島を駆け巡ったことを、今も鮮明に覚えています。
私は小学生でしたが。
(一言:思い出すなーっ、万国博覧会のアメリカ館に展示されていた月の石を2時間も並んでみたことを・・・・ただの小さな石にしか見えなかったんですけどね、大人たちが関心するものだから・・・・。)
西壁女子群像
発見当時は飛鳥美人画という代名詞で呼ばれていた気がします。
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