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〜明日香村 高松塚古墳:これらの終末期古墳から政変が見える〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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前回ご紹介したように、高松塚古墳は、古墳時代の終末期の古墳で、飛鳥時代の藤原京期(694年〜710年)のものと言われ、石室に描かれた壁画の鮮やかさで一躍脚光をあびました。
南東から北西へ伸びる尾根の付け根に近い最高所の南西腹部に築かれた径18mの円墳で、凝灰岩の切石を用いた横口式石槨(よこぐちしきせっかく)の内部に、四神・日月・星宿・人物像などの壁画が描かれています。
終末期古墳については、河上邦彦著『大和の終末期古墳』(学生社)という本が出版されています。
以下は高松塚古墳に代表される飛鳥の終末期古墳より知りえた
河上邦彦著『大和の終末期古墳』(学生社)の記述内容です。
高松塚古墳発見以前は、6世紀およびそれ以降に築造された古墳は後期古墳として一括されていましたが、後期古墳は6世紀末には前方後円墳が作られなくなり、代わって円墳や方墳が主流となります。しかも規模が縮小しますという変化は劇的で、後期古墳という一括するには問題があることが分かってきます。
そこで、考古学者の森浩一氏は、後期古墳を規定するのに、古墳の存在形態と古墳の造営数に着目して、情勢が激変する6世紀末を後期古墳時代の終焉と考え、それ以降の7世紀代に築造されたキトラ古墳や高松塚古墳などを「終末期古墳」として扱われるようになります。
古墳の築造という観点から、河上氏は後期古墳時代の前方後円墳は、寿陵(じゅりょう:生前に作られ陵墓)で、終末期古墳時代には死後に墓造りが行われたと考察した上で、終末期古墳時代の前半では、墳丘の規模は小さくなるが、五條野丸山古墳や石舞台古墳などの例から、内部の横穴式石室は後期古墳より規模が大きくなり、また巨石を使うようになったと推測。
(ちなみに:中国では古来より、生前にお墓を建てることは長寿を授かる縁起の良いこととされ、古文書にも「寿蔵」や「寿堂」という記述があり、その例として秦の始皇帝をはじめとする歴代皇帝の墳墓・エジプトのピラミッドにも寿陵が見られます。日本でも聖徳太子が寿陵を建てていたことが『日本書紀』や『徒然草』に記されていますし、近年では昭和天皇や現在の平成天皇?も寿陵をたてています。)
(一言:現代日本でも一般的に遺族への負担を考えて生前墓を建て、その名に黒ではなく朱を入れますが、この場合長寿どころか逆に生前墓を建てると早死にするという都市伝説をよく耳にします。)
横穴式石室の変化は、墳丘の規模の変化と連動しているが、当時の社会の動きとも密接につながっていた。
645年の大化の改新で律令国家建設に向けて大きく舵が切られるようになると、薄葬令が施行され墓制に対する規制が強まり、墓作りが国の管理下のもと墳丘や石室の規模にも、いくつかのランクが設けられたようだと。
そうした政変を反映して、横穴式石室は、自然石の巨石から切石に変わり、新しい技術革新が美しい石室造りを可能にしたが、その一方で石室の規模は縮小化して行きます。
そして一部は、 羨道(せんどう:古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分。)を持たない横口式石槨(よこぐちしきせっかく)に変化して行く。また、後期古墳時代から続いていた群集墳も劇的に縮小してゆきます。
こうした墓に対する規制の急速な変化は、新しい理念として風水思想が広まったためだと推論します。
風水とは、狭義には都市や寺院、住居、墓地などの立地を選択する術であり、おおむね三方を山に囲まれ前方が開けている場所を蔵風得水の吉地としています。
平安時代に陰陽師の阿倍晴明が撰したとされる『簠簋(ほき)内伝』巻4には、北に高山あり(玄武)、南に沢畔あり(朱雀)、東に流水あり(青龍)、西に大道ある(白虎)土地を、四神相応の地として推奨している。
こうした吉地に国都を営めばその国は滅びず、住居を建てればその家は栄えるとされました。
風水思想では、墓も四神相応の地に作るのが理想とされている。すなわち、玄武は北で小山があること、青龍は東で河があること、朱雀は南で南山があること、白虎は西で大道があること、そして、その地の真ん中が龍穴で、そこに墓を作るのが理想とされたのです。
河上氏は、終末期古墳の立地条件を調べて、大半が以前のように山や丘陵の尾根の頂きではなく、南斜面の中腹に位置していることに着目し、風水思想の影響を指摘されたが、当時の学界ではまともには取り上げて貰えなかったそうです。
更に河上氏は、7世紀中頃からは成人の骨を納められているにもかかわらず、小児の埋葬施設かと思われるほど極めて小型の埋葬施設が出現するようになります。
これは、それまで遺体をそのまま埋葬した陵墓だったのが、薄葬化の流れに沿って改葬墓(一度埋葬したご遺骨やお墓などを、他のお墓に移す)に変化していったと推測され、やがて火葬墓につながっていったのではないかと。
更に更に、石槨(せっかく:石材でつくった棺(ひつぎ)や副葬品を納める室。)の素材についても変化が起こります。
それまでの花崗岩の自然石に加工を加えていた横穴式石室に替わって、凝灰岩の岩盤層から切り出した切石によって横口式石槨が作られるようになります。
凝灰岩は、火山灰が固まった石材で、軟石と呼ばれ、花崗岩に比べて加工がはるかに簡単だそうで、キトラ古墳や高松塚古墳などの石槨に用いられます。そしてこの凝灰岩は、現在の大阪府と奈良県の県境にある竹之内峠の横にある二上山・屯鶴坊から切り出されたとされています。
これは、壬申の乱で勝利した天武天皇は近江勢力(天智天皇・弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷のこと。667年の近江大津宮への遷都から、672年の壬申の乱による廃都までの5年余。近江令の制定(疑問視する説もある)、庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成、太政大臣・御史大夫(ぎょしたいふ)などの新官制の設置などにより中央集権化を推進、律令制成立の基礎を築いた。)を一掃した結果、当時もっとも優れた技術で花崗岩を加工していた近江石工がいなくなってしまったことが背景にあるとか。そこで、石棺や建築の用材として二上山の凝灰岩を扱っていた石工に、横口式石槨を作らせることにしたとの推測に至ったと。
このように、終末期古墳は前方後円墳から円墳や方墳に変わるのですが、
ただし、天皇陵だけは前方後円墳からまず大型円墳に変わり、その後に大型方墳に変わり、それがさらに八角墳に変わったと推測しておられる。しかも、八角墳を分析すると、すべて八角形のものと、上八角下方墳のものがあるという。そして、多くの八角墳は円墳を意識して造営されたが、張り石などの積み上げの際に構造上の必要性から八角が作られただけではないかと。
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