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〜明日香村 高松塚古墳:壁画と出土品の意味〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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前回は高松塚古墳の壁画をご紹介しましたが、壁画はそれが全てではありません。
今回は壁画の配置や意味についてご紹介します。
天井は、石の中央1mの範囲に、直径9mmの金箔を円形に貼り付けて星にみたて、朱塗りの線で結んで星座を描いてあります。
歴史の知識:もっと古墳を知ろう〜造り方・によれば、
側面は岩の上に漆喰(しっくい)をぬり壁画が描かれています。
北壁の玄武(蛇と亀が合体したような)、東壁の青龍、西壁の白虎は、聖獣と呼ばれ、それぞれの方角の守り神です。
これは、中国の『四神相応』という思想で、南を守る聖獣は、朱雀ですので、南壁にはおそらく朱雀が描かれていたものと思われますが、鎌倉時代に盗掘された穴が開いていて、確認できません。
四神の他に、西壁に月、東壁に太陽、そして16人の人物像が描かれています。
人物像は、上の絵のように、男女それぞれ4人ずつに分かれていて、男性はそれぞれ、柳箱・鋒・蓋(きぬがさ)など、全員が何か手に持っています。女性は、西壁・東壁ともに、4人のうち二人が団扇(だんせん)、如意などを持っています。
そして各壁画の配置は以下のようになっています。
高松塚古墳 壁画の展開図
ではなぜ四神と天文図が共に壁画の中に描かれているのでしょう。
歴史の知識:もっと古墳を知ろう〜造り方・にはその点について
まず『四神相応』の思想は、この飛鳥時代頃から長きに渡って宗教的に受け継がれてゆきます。『四神相応の地』は永遠に栄えると言われ、後に造られる平城京も、平安京も、そして江戸の町さえもその思想に基づいて造られています。
飛鳥時代には、大極殿や紫宸殿の庭の東西南北の四隅に、それぞれの方角を守る聖獣を描いた旗などを立てて守り神としていた程度なのですが、平城京や平安京の頃には、陰陽道や風水となって、都じたいが四神相応の地に造られるようになっていきます。
玄武は北方の山、朱雀は南方の池、青龍は東方の川、白虎は西方の大路に、それぞれ住んでいると考えられていて、それに見合った土地に都を造営します。
たとえば、平安京はみごとに『四神相応の地』なのです。
・・・・・・桓武天皇はよほど怨霊が怖かったとみえ、完璧な『四神相応の地』に都を築き上げています。
また、江戸の町も徳川家康が天海というお坊さんに「千年の都を造ってくれ」と頼んで、『四神相応の地』になるように設計されています。鬼門には東照宮を建て家康自らが江戸を護っています。
現在も『家相』や『風水』という形で、この思想は受け継がれています。
次に天井の天文図は、天極を中心に、東西南北それぞれ七宿ずつ、合計二十八宿の星座が描かれています。
この、二十八宿というのは、太陽や月などの天体の位置や変化を知るために考えだされた宗教的な意味がある物です。 月の通る道に沿って輝く星を選んで、天を28に分けて、輝く星を標準の星(距星)として、その距星から次の東の距星までを一つの宿としました。 二十八と言う数字は、地球から見ると、月は28日で恒星の間を1週してもとに戻るので二十八宿となりました。 二十八宿の星座を、月や日にあてはめて占いに用いたりしました。 それぞれの年や日に『えと』が割り当てられるのと同じです。 今もよくお正月近くになると、書店などで売られている『暦』には、大安や仏滅などと同じように、日にちに割り当てられた宿の名前が書かれてありますよ。 ちなみに平成十九年1月1日は、乙未(きのとひつじ)の大安で、二十八宿は南方・朱雀七宿の張(ちりこぼし)です。 (一言:丁寧な説明だとは思うのですが、実は二十八宿の説明が私にはよくわかりません。そこで別途調べてみました。)
二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。・・・・またその区分の基準となった28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。28という数字は、月の任意の恒星に対する公転周期(恒星月)である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に、月は1つのエリアを通過すると仮定している。
角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)に分けられた。
白く小さな点が確認できますか?直径9mmの金箔を円形に貼り付けて星にみたてています。
東部壁画 月輪像
月は西壁中央上に銀箔で描かれています。
ところで墳墓というものは、現代人の興味の一つに誰の墳墓であるかが大きな興味対象となります。
しかし被葬者については諸説あり特定されていません。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀というのが現実です。
被葬者論に関しては、①天武天皇の皇子説・②臣下説・③朝鮮半島系王族説の大きく3つに分類できるとされ、
歴史の知識:もっと古墳を知ろう〜造り方・によれば、
「造営されたのが藤原京の頃で、形状が円墳というところからその時代の皇族クラスの人物と考えられているそうです。
更に埋葬品や壁画などから、今のところ最も有力な候補は天武天皇の第4皇子の刑部皇子ではないかとも思われますが、出土した人骨を調査したところ4〜50代とみられ、それでは年齢が合いません。
また、地元には昔から、高松塚は天武天皇の孫・文武天皇陵との言い伝えが残っていますので、その事も踏まえて推理しなければなりません。」と推論する上での注意点まで述べています。
【出土品について】 歴史の知識:もっと古墳を知ろう〜造り方・より
高松塚の石室内部は、盗難によって乱されてはいたが、金具や釘で飾った黒漆塗りの木棺があり、唐の海獣葡萄鏡や唐風の刀の飾り金具などが残っていた。高松塚古墳など終末期の古墳の副葬品は、優品ではあるが種類も数も少なくなっている。高松塚に葬られた人は骨の研究から40〜60才の長身の男性と考えられており、副葬品や壁画の主題からみて、皇族・貴族などの有力者であろう。
出土品には、漆塗木棺とその金銅製の装飾金具である透金具、円形金具、六花文座金具がある。そのほか唐様太刀の銀製金具、海獣葡萄鏡および琥珀製丸玉とガラス製の栗玉・丸玉があり、さらに土器と人骨がある。このうち人骨を除く出土品については、昭和49年4月、重要文化財に指定された。その後、昭和50年、明日香村奥山に国立飛鳥資料館が開館し、木棺、人骨を除く遺物が特設の展示ケースで陳列されている。
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ペタリ。
2014/12/15(月) 午後 11:52 [ haruyama_arch ]