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〜明日香村 キトラ古墳:この発掘も高松塚古墳の失敗は生かされず〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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高松塚古墳全4ページ ブーム〜四神
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キトラ古墳(亀虎古墳とも書く)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cmの二段築成作りの円墳で、高松塚古墳の南約1.2kmの場所にあり、7世紀末〜8世紀初めのものとされています。
何と言ってもキトラ古墳は、石室内に壁画が発見され高松塚古墳との共通点が非常に興味深い古墳です。
キトラ古墳の名前が初めて考古学の専門誌に登場したのは、1981年のこと。奈良国立文化財研究所(当時)職員だった猪熊兼勝(いのくまかねかつ)・京都橘大名誉教授(76)が論文を書き、片仮名で「キトラ」と紹介されました。 猪熊さんによると、住民は古墳周辺を「キトラ」と呼んでおり、地名の「北浦」の読み方「キタウラ」が転じたとみられているそうですが、現在の正式な地名は明日香村阿部山(あべやま)字(あざ)ウエヤマです。
キトラ古墳は亀虎古墳とも書きますが、キトラの語源は、四神に亀(キ、玄武)や虎(トラ、白虎〈びゃっこ〉)が描かれていたためではなそうです。
猪熊さんはその数年前、村の文化財好きの友人に連れられ、道ばたの小さな盛り土を見に行きます。友人は古墳の可能性を指摘したが、文献に記録もなく、古墳と即断できなかった。地下探査を試みるなどすると、未知の古墳の可能性が強まり、83年11月7日、石室内をファイバースコープで調べた結果、四神壁画「玄武(げんぶ)」が見つかりました。 1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集めます。
第一発見者は、地元の歴史愛好家の上田俊和さん(73)で、生まれ育った家が高松塚古墳やキトラ古墳に近く、他にも多くの古墳がある地域で、上田さんは自然と考古学少年になった。中学時代には村内の遺跡を調べてノートにまとめるなど、高校卒業後、家業の農業を継いでからも、考古学の勉強を続けます。
1970年に村の歴史愛好家が「隠れた文化財を世に出し、保存につなげて飛鳥を守る」を掲げて結成された「飛鳥古京顕彰会」にも、当初から加わりました。
顕彰会は72年の高松塚古墳発掘にかかわっており、上田さんは調査中、古墳らしきものがあると村人に聞き、人工的な土の重なり具合からキトラ古墳を見つけ出します。その後、顕彰会が中心になり、考古学者やNHKの協力で83年に調査が始まり、83年11月7日、石室の盗掘坑から入れたファイバースコープで壁画「玄武」が見えた。
キトラ古墳も高松塚古墳と同様に壁画は発見後、カビやバクテリアで汚れます。高松塚古墳は石室そのものが解体され、キトラ古墳の壁画は剥ぎ取られます。上田さんは「二つとも保存に失敗し、非常に悲しかった」と語っています。
(一言:私も悲しいです。高松塚古墳での失敗は生かされなかったということです。本来ならカビやバクテリアに対する防御策が確立するまで、キトラ古墳に手を出すべきではなかったと私は思います。)
現在壁画は修復され、キトラ古墳の石室は埋め戻しが始まっており、2016年度には円墳が復元され、壁画展示施設もできる。「地元で保存できるのがとても良い。日本国始まりの雰囲気を残す地で見てもらうのが大事で、村の誇りになる」
(一言:私には、地元や関係者が功名心や商業主義に走り、先走った行動をしているとしか思えません。)
ともわれ発見者の上田さんは現在、抗がん剤治療を受けながらも、歴史への情熱は失なわず、「1日、1時間でも長生きする」と、古文書や村民の情報を頼りに新たな文化財を探して歩き続けると語っているそうです。
(一言:上田さんの情熱は認めるとしても、次なる発見のおりには、失態を生かし、今度こそ3度目の正直で、急がず焦らずの調査と発掘を願うばかりです。新発見などという麻薬にとらわれずに、後の世に手柄を残しておけば、新技術でカビなどに万全の対処が出来るようになるのでは・・・・。)
キトラ古墳の外観(2009年)
飛鳥資料館に展示されていたキトラ古墳の復元模型
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