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〜明日香村 キトラ古墳:天井の星宿に注目せよ!〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−キトラ古墳のページ−
高松塚古墳全4ページ ブーム〜四神
これまでにご紹介したように、(いや、紹介するまでもなく)高松塚古墳とキトラ古墳には、極彩色の石室壁画が描かれていたことで、一躍万人の注目するところとなりました。
ですが、これら2つの古墳に対する壁画ブームに対し、「何だ、四神や明日香美人の壁画がスゴイだと?そこが素人の浅はかさだっ!」と言わんばかりのページがネット上にはあります。
では何に注目したなら玄人なのでしょう?
発掘後40年、未だ特定できない高松塚古墳の被葬者には、以下のような記述があります。
「(わが国では)今日までに多くの古墳が発掘されているが、極彩色の石室壁画が描かれているのは1972年に発見された高松塚古墳と、そこから1.2キロ南で1983年に発見されたキトラ古墳以外にない。いずれの古墳も7世紀末から8世紀初めに作られた兄弟墳である。そして、いずれの石槨も四周の壁に四神や日像・月像が描かれ、天井には星宿が描かれている。
高松塚古墳に描かれた星宿図(天文図)はかなり様式化された図柄となっている。天井の中央、約1mの範囲内に径0.9cmほどの金箔を張り付け、それぞれを赤い線で結んで星宿を表現している。
星宿図の中央には天極五星と四補四星が描かれている。天極五星とは「天の中心の星」とそれに連なる「後宮の星」、「庶子の星」、「天帝の星」、「皇子の星」の四つをいう。
四補四星は天帝を補佐する星と言われている。これらの星を紫微垣(しびえん)の星といい、宮中を表現するものとされている。
これら紫微垣の星を中心にその周りに東方七宿、西方七宿、南方七宿、北方七宿の二十八宿が描かれている。
紫微垣(しびえん)とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。
(対して)キトラ古墳では天球を円で区切り、未同定の星座も含めて68 の星座と約350 の星を写実的に描がいている。つまり、高松塚古墳の星宿図に比べて、キトラ古墳の星宿図の精密度は、遥かに高い。地平線に当たる位置に外視をまるく描くとともに、円を描く赤道と黄道が交わり、春分と秋分の位置を明確に示している。ちなみに、赤道とは天の赤道、黄道とは太陽の通り道をいう。更には、北極を中心にした天空の位置には、内規(地平線下に沈まない星の限界線)を同心円に描いている。そのため、この星宿図をコンピューターによって画像解析した天文学の専門家たちは、まさに星宿図というにふさわしく、こうした高い水準の星宿図が7世紀末の日本に存在していたということは驚くべきことだ。
日本の誇りであり、キトラ古墳の星宿図だけでも世界遺産に相当する・・・・にもかかわらず一般にはそれほど関心がもたれていないことは嘆かわしい。
このキトラ古墳の天井に描かれた星宿図は本格的なものとしては世界最古である。
ちなみに、現存する中国最古の星宿図は,南宋時代1247 年の「淳祐天文図」で、その内容は1078-85 年の観測に基づくものとされている。韓国の現存する最古の星宿図は、李氏朝鮮時代の「天象列次分野之図」で、高句麗の天文知識に基づいて太祖4年(1395)に復刻したものである。同図に付記された銘文から、原図となった石刻星図は6世紀に高句麗の都・平壌で作られたが、戦乱で大同江に沈み、失われたという。天象列次分野之図は高句麗で作られた石刻星図の拓本をもとにして、新たに観測した結果を加味して作られた星宿図である。
科学技術史の橋本敬造・関西大学教授は、大同江に沈んだ石刻星図の拓本かそれをもとにした星宿図が我が国に伝わり、キトラ古墳の原図になったと考えておられる。
教授は星宿図の中心に描かれた内規と赤道の半径を比較して緯度計算を行ない、この星宿図は「北緯38〜39度」すなわち、高句麗の王都だった平壌付近のものであると結論付けられた。」
などと紹介し、その上で、
「となると、キトラ古墳や高松塚古墳の被葬者に・・・・・。千田氏は百済王氏の父子を被葬者に推定しておられるが、当時の倭国(日本)には660年に百済からの亡命者だけでなく、668年に滅ぼされた高句麗からの亡命者も多くいた。しかも、百済と違って、高句麗は壁画古墳の宝庫である。」
と力説しています。
こうした発掘後40年、未だ特定できない高松塚古墳の被葬者の記述に着目して他のサイトでの記述を覗いてみると、
kitora-4.jpgには以下のような記述があります。
「キトラの天井の星図には,天の北極を中心として同心円が数個描かれている。最も大きい円は、みえるぎりぎりの範囲という 意味だとすると、その円が南(北)緯何度あたりかがわかれば、 地上のどのあたりの緯度用だったかをすぐに計算できる。
大阪市教育大の宮島先生の計算によればこの星図は北緯38〜39度 あたりで見られる星空であると発表されている。中国より南で日本より 北、朝鮮半島あたりがちょうどあう。 キトラの四神、天井に同心円が描かれた星図という壁画の様式は高句麗古墳と同じことが指摘されているが、 本当に高句麗の星空なのだろうか?
高句麗古墳の星図はいずれもアバウトで,星宿は描いていないし、 北斗周辺の星も実際とは異なるいいかげんな配列である。
キトラの 精密な描写とはぜんぜん似てない。もし高句麗の人が作成したとしても、高句麗古墳の元図とは全然違う、よい星図を使っている。
その星図が 何者なのかわからないが、中国にもこの時代の精密な星図は 残っていない.ただ28宿をはじめとする中国星座は,この時代はほぼ完成しているので中国ならば作ろうと思えば星図は作れたはずである.
整数値225が225度として意味を持つ菟道脇郎子墓(菟道稚郎子墓の誤記か?)とキトラ古墳との経度が一致することからも、天体観測で方位角を表わす際に度数法を用いていたといえそうです。
したがって、緯度の差を利用するこの暗号の仕掛け人なら、緻密な計算によって、高句麗上空を表わす、精密な星図を作成することができたはずです。
では、なぜ高句麗上空を表わす星図を作成したのか?という疑問が生じますが・・・・・・、
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。 その答は、日本書紀・古事記・・・・・。」と続けています。 ●(キトラ古墳の被葬者は、)石清水八幡宮の祭神(でもある)応神天皇が、404年、高句麗に出兵して戦死した倭王であることを告げる暗号だと結論づけています。注:()内は私の補足文です。
もちろん、
(一言:応神天皇は、〜魚眼で見る住吉大社:幸壽門より境内へ(2013.8.14)〜でご紹介しているように、住吉大社 第四本宮のご祭神である息長足姫命((おきながたらしひめのみこと:神功皇后)の子息で、神功皇后には、「お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約した。」という伝説があります。神功皇后)の夫の仲哀天皇の急死(200年)後ですから、2??年ということになりますが、その子応神天皇が、404年とは、計算が合わないなあっ・・・・。まあっ、古事記や日本書紀にある神話ですから年代については・・・。)
(ちなみに:神功皇后200年頃(神話時代)、新羅を救援朝鮮半島へ大航海には、既に日本に亡命してきた渡来人「新羅の王子」の子孫の夫人が後の神功皇后で、仲哀天皇の皇后となる以前に身ごもっていたというスキャンダラスな新説が紹介されています。)
キトラの天井に描かれた星宿図
以上で学術的な一つの説のご紹介は終了ですが、
最後に、キトラ古墳と高松塚古墳の天井に描かれた星宿図の違いや被葬者について、考古学に素人の思いつきと言うか、私なりの推論をご紹介したいと思うのですが、
私なりの推論は、次回ページでご紹介します。
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