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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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明日香村 キトラ古墳:天井の星宿図などから導き出される私の推察
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  

−キトラ古墳のページ−                
またも失敗は生かされず キトラ古墳  壁面より剥ぎ取られ保存 四神壁画
四神壁画より興味深いぞ 星宿図の差 星宿図から推察してみる 被葬者は
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して                     

前回の続きです。

イメージ 1

上の豪族の分布図でわかることは、
キトラ古墳は、東漢という中国からの渡来人が多く住んでいた地域にあり、高松塚古墳は、蘇我 氏の一族が住む地域にあるということです。
【東漢(とうかん)とは】
中国の王朝:後漢の異称。都を前漢の長安から東の洛陽に移したのでこういう。
後漢(ごかん:25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と紛らわしいので、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。後漢は科学技術の進歩が著しい時代であった。・・・・・安帝から順帝の時の太史令の張衡は天文を研究して、渾天儀・地動儀を発明した。渾天儀は現代で言う天球儀のことで、水力により地球の公転に併せて回転して星座を正確に表示したと言う。
上に示した豪族の分布図の中の東漢は、中国の王朝:後漢からの渡来人が住む地域ということでしょう。

更にこれまでにご紹介したように、その他に、
高松塚古墳キトラ古墳の後に建造されたと考えられている。
これまでご紹介しているように、「中国ならば作ろうと思えば星図は作れたはず」ということ
これまでご紹介しているように、キトラ古墳の天井に描かれた星宿図高句麗上空のものであると する説がある。
キトラ古墳被葬者は、応神天皇404年、高句麗出兵して戦死した倭王あることを告げる  暗号だとする説がある。
応神天皇の母:神功皇后には、「お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵し て新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約した。」という伝  説がある。
神功皇后200年頃(神話時代)、新羅を救援朝鮮半島へ大航海には、既に日本に亡命してきた渡来人「新羅の王子」の子孫の夫人が後の神功皇后で、神功皇后仲哀天皇と結婚した時には、既に身籠っていたので、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、その帰路に筑紫の宇美で15ヵ月(妊娠から出産まで15カ月もかかっている)後に応神天皇を出産し、応神天皇仲哀天皇の子だとされ、後に天皇に即位した。という新説が紹介されている。
一言では、神功皇后が朝鮮半島出兵の際に身ごもっていた子が応神天皇とされていますが、の記述を総合して深読みすると、神功皇后が朝鮮半島出兵の際に身ごもっていた子は、朝鮮半島で亡くなり、その後高句麗人の子を身ごもって、帰路の船上で産まれた子が応神天皇だったと、推察することも出来ます。

以上7つの事柄や推論を採用して考えた私の自論をご紹介すると、
キトラ古墳は、
キトラ古墳は、に記したことから、中国からの渡来人:東漢が手がけて造られ、に記したことから、被葬者は朝鮮半島の王朝:高句麗にかかわりのある人物と考えられます。
更にで記したことを採用すれば、応神天皇自身も渡来人の自筋をひく存在ということになりますが、の説を参考にし、の記述やその中の(一言:)の私が深読みした記述を総合すると、被葬者は、神功皇后の子(神功皇后が朝鮮出兵の前に身ごもごりながら朝鮮半島で亡くなった子、もしくは朝鮮出兵のおりに、船上で生んだ子:応神天皇倭王?と考えられます。ただし、応神天皇陵大阪府羽曳野市誉田6丁目にある惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)に現存しているうえに、天皇の墳墓が渡来人:東漢の住む地域に造られたとは考えられないことから、神功皇后朝鮮出兵の前に身ごもごりながら朝鮮半島で亡くなった子、もっと言えばキトラ古墳の天井に描かれた星宿図高句麗上空のものであることから、キトラ古墳の被葬者は、朝鮮半島の高句麗で亡くなった神功皇后子(応神天皇ではない)ではないでしょうか。
注:ここまでは、このページを公開した当日の記述ですが、その後調べを進め、12月14日に修正しました。
次に
高松塚古墳は、
の記した事から、高松塚古墳の被葬者は、キトラ古墳の被葬者以後に亡くなった人物で、キトラ古墳を手本として造られたと推察されます。
また、に記した事から、蘇我氏ゆかりの人物であり、応神天皇にもゆかりがあると思われ、神天皇にゆかりがある倭王もそうした人物とも思えるのですが、年代的に該当しません。
武内宿禰(たけしのうちのすくね)が京都の石清水八幡宮で応神天皇・神功皇后と同格で祭られていて、蘇我氏の高祖と「記紀」は伝えているということです。
つまり蘇我氏は皇族に匹敵するほどの存在でした。
朝鮮半島に出兵したという点で蘇我氏の血筋を調べると、日本書紀』によると、蘇我 韓子(そがの からこ)、465年3月雄略天皇の命で・・・・新羅征伐のために朝鮮半島へ渡ったとされることから蘇我 韓子=倭王なのかもしれません。
ただし、蘇我 韓子の没年は、 465年5月とされていますので、高松塚古墳694年710年の被葬者としては不適格です。
高松塚古墳が蘇我氏の集落域にあることから、あくまでも蘇我氏の系譜の中から年代的に該当する存在を探そうとしても、蘇我氏大化の改新の政変の中で一族は滅んでいます。
ということは、蘇我氏滅亡以後に高松塚古墳のある地域に一族の集落があった豪族の系譜を調べる必要があることになります。
蘇我氏亡後に台頭した豪族は、乙巳の変蘇我入鹿暗殺した当事者の藤原鎌足に連なる藤原氏すが、蘇我稲目の時から対立していた物部氏に被葬者としての可能性を探りました。
結果、物部氏の系譜にある石上麻呂(いそのかみのまろが浮上しました
石上麻呂 - Wikipedia には、以下のように紹介されています。
物部麻呂が史書に現れるのは、天武天皇元年(672年壬申の乱の終局、物部麻呂はこの乱での敗者である大友皇子(弘文天皇)の側として、大友皇子が敗走して自殺するまでつき従いますが、同族の朴井雄君が大海人皇子側で勲功を挙げた事で物部一族への処分が軽微に留まったり、その忠誠心が天武天皇に評価されて新政権で起用されたのではないかと言われます。
物部連は他の多数の姓の氏とともに朝臣の姓を与えられた頃、死後に氏上と認められ、氏の名を石上と改めたらしい。
この頃新羅と日本は使者の往来を頻繁に行っており、物部連麻呂は、天武天皇5年(676年10月10日、大乙上大使となって新羅に、入れ違いで新羅の使者が来日、翌年2月1日に新羅から帰国した。
ということで、高松塚古墳の被葬者は、物部連麻呂こと石上麻呂(いそのかみのまろ)というのが私の結論です。


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