カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

全体表示

[ リスト ]


〜明日香村:石のカトラ古墳と丸山古墳はキトラ古墳と高松塚古墳の兄弟?
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  

−キトラ古墳のページ−                
またも失敗は生かされず キトラ古墳  壁面より剥ぎ取られ保存 四神壁画
四神壁画より興味深いぞ 星宿図の差 星宿図から推察してみる 被葬者は
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して                     

石のカトラ古墳は、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境にある上円下方墳で、一見すると明日香村にあるキトラ古墳高松塚古墳とは全く関係がないと私には思えます。
なのになぜ私が明日香村に無い石のカトラ古墳についてここで触れる気になったのかと言うと、その理由は極めて単純、ズバリ飛鳥資料館に石のカトラ古墳遺構模型が展示されていたからなのです。しかもキトラ古墳推定復元模型の直ぐ横にです。
調べてみるとキトラ古墳高松塚古墳石のカトラ古墳、更にはマルコ山古墳が兄弟古墳だとする説が存在したのです。
イメージ 1
石のカトラ古墳遺構模型(飛鳥資料館展示)

不適当な総称かもしれませんが、あえて言わせてもらえば、古墳時代終末期4兄弟とでも言うやつでしょうか。
ではなぜこれら4つの古墳を兄弟と言うのでしょう?
その共通項は、横穴式石室=横口式石槨(せっかく:石でつくった、棺を入れる外箱。だとされています。
ならば本当に4つの古墳が私たちにも納得できる根拠があっての説なのか?石のカトラ古墳マルコ山古墳についても調べてみることにしました。

まずは石のカトラ古墳からです。
この古墳のある地域に存在していた豪族から検索してみると、京都府木津川市山城町上狛には、高麗寺跡という史跡があり、その説明書きには、
「高麗系渡来氏族の中心地であった上狛の東方にあり、飛鳥時代から平安時代まで存続した寺院跡。この地の豪族であった新興勢力の高麗(狛)氏の氏寺として建立されたものと考えられる。」
おやっ、高麗系渡来氏族とは、なんだか匂ってきましたよ!
高麗氏(こまうじ)は、高句麗王族を祖先とする渡来系。668年の唐・新羅連合軍との戦いで高句麗が滅亡。約1799人の高句麗人が日本に渡来します。
その血筋には、句麗第19代国王・広開土王から五代孫の王族として子孫は代々、埼玉県日高市の高麗神社宮司として現在まで続いている。同族に高句麗第22代国王・安蔵王から三代孫の子孫の狛氏があり、これが京都府木津川市山城町上狛を拠点とした高麗(狛)氏だそうです。

埋葬施設はいずれも横口式石槨で、長さ約2.6〜2.7メートル、幅約1〜1.3メートル。マルコ山古墳だけがひと回り大きく、4つの古墳の築造順序は、7世紀後半〜8世紀初めごろで、一般的にはマルコ山→キトラ→高松→石のカラトと考えられているそうですが、キトラ→石のカラト→マルコ山→高松塚と考える説もあり、その根拠として、石槨天井部の形に注目しています。
石槨天井部の形は、高松塚古墳を除く三基の天井石には、台形状の彫り込みがあります。
キトラ→石のカラト→マルコ山→高松塚と考え説の根拠は、例えば家形石棺の形式変化は新しいほど傾斜角度が小さく、平らに近い形となることから、同じ視点で4つの石槨を見た場合、屋根状の彫り込みがない高松塚古墳まで、順に時代をたどることができると考えた結果導き出された説なのです。
ただし、平城京北側に位置する石のカラト古墳は、ふき石のすき間で見つかった「平城II式」と呼ばれる土器形式などから、奈良時代の古墳と考える研究者が多いため、マルコ山→キトラ→高松塚→石のカラトと考える説が一般的なのだそうです。
ちなみにこのページでは、天武天皇の皇子:忍壁皇子を高松塚古墳の被葬者とする説も紹介しています。

話を高麗(狛)氏に戻すと、
高麗(狛)氏の渡来時期は曽我稲目に繋がる第29代欽明天皇の御世(540〜571年)、大伴狭手彦が高句麗を攻撃し、その王都を陥落させて「高句の囚(とりこ)」を獲得し、これを献上したのが「今の山城国の狛人(こまひと)」と記した古文書があり、・・・・とにかく南山城の地域は、高麗氏をはじめとする渡来人たちによって伝えられた、先進的な文化・文明が咲き誇った地域だったそうですから、当然石のカトラ古墳横穴式石室=横口式石槨にも係ったのではないでしょうか。
ちなみに、欽明天皇の義父は曽我稲目で、聖徳太子孫にあたるなど蘇我氏と深い繋がりがあります。欽明天皇の非蘇我系の子孫:敏達天皇の第1皇子として押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)という方が居られ、子に舒明天皇茅渟王がいます。
押坂彦人大兄皇子生没年不詳ですが、押坂彦人大兄皇子 - Wikipediaによると、
「非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ:古代において,皇子の養育料を出す公的機関。)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町牧野古墳か?)に葬られた。」としていますが、私としてはこの押坂彦人大兄皇子(607年以前に死没)石のカトラ古墳の被葬者ではないかと考えます。
そうだとするなら、キトラ古墳の被葬者蘇我高麗(没年550ごろ?)、高松塚古墳の被葬者石上麻呂(没年720年ごろ?)とした私は、
結果的にはキトラ→石のカラト→マルコ山→高松塚の順で築造されたという説に参同することになるのかな?




PVアクセスランキング にほんブログ村

.
上から目線
上から目線
非公開 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

標準グループ

登録されていません

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

ブログバナー

友だち(2)
  • 湖池健彦 Essay
  • 土佐文旦
友だち一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事