|
〜明日香村:終末期古墳4兄弟としてのマルコ山古墳〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
前回はキトラ古墳や高松塚古墳と石のカトラ古墳、更にはマルコ山古墳が兄弟古墳だとする説があると知り、
キトラ古墳は蘇我高麗(没年550ごろ?)
高松塚古墳は石上麻呂(没年720年ごろ?)
石のカトラ古墳は押坂彦人大兄皇子(没年607年以前)
ではないかとした私は、結果的には
キトラ古墳→石のカラト古墳→マルコ山古墳→高松塚古墳の順で築造された
という説に参同することになるのかな?と記しました。
今回はマルコ山古墳について考えてみます。
まずは4つの古墳の位置を確認していただきます。
飛鳥時代の豪族の分布と古墳時代終末期の兄弟古墳の位置
上の図で示すように、石のカトラ古墳と違って、丸山古墳は明日香村にはないものの、高松塚古墳やキトラ古墳に程近く、終末期古墳として同じ様式の石室があっても何の不思議もありません。
①キトラ古墳:被葬者は蘇我高麗(没年550頃?)私の説
②石のカトラ古墳:被葬者は押坂彦人大兄皇子(没年607年以前)私の説
という築造順序になります。
マルコ山古墳の被葬者として考えられてる川島皇子(657-691年)は、天智天皇の第2皇子ですが、天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)も列席する中、草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・志貴皇子と共に一同結束を誓う「吉野の盟約」に参加し、権力闘争に加わることもなく、文官として一生を過ごしました。
今回はマルコ山古墳の被葬者について私の説を強いるつもりはありませんし、天智天皇の皇子でありながら、権力の座に固執せず、穏やかな人生を送った川島皇子が、壁画の描かれていない簡素な棺である反面キトラ古墳や高松塚古墳よりも、古墳や石棺の規模としては一回り大きいマルコ山古墳の被葬者だとする説は納得できるものです。また、弓削皇子も若くして亡くなり、権力の座にも無縁でした。
天智・天武天皇関連系図 - Hi-HOよりところでマルコ山古墳は日本で数例しかない六角形古墳(やや膨らみを帯びた六角)の一つとされています。マルコ山古墳1 - 明日香村には以下の右に示した小さな地図や、多くの方が撮影した画像からも六角の古墳とハッキリ認識できるものはありません。
(一言:近いうちに現地で私の機材を使ってプチ空撮してみたいと思いますが、高さ9メートルからの撮影では証拠立てる画像が望めないかもね。)
マルコ山古墳石室の構造 マルコ山古墳地図
結局私的には各古墳の被葬者と築造順序は、
①キトラ古墳:被葬者は蘇我高麗(没年550頃?)私の説
②石のカトラ古墳:被葬者は押坂彦人大兄皇子(没年607年以前)私の説
④高松塚古墳:被葬者は石上麻呂(没年720年頃?)私の説
という結論になります。 終末期古墳についての話はまだ次回に続きます。
![]() |
全体表示
[ リスト ]





