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〜明日香村:風水で見る石のカトラ古墳と飛鳥・藤原京・平城京の関係〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
〜明日香村:石のカトラ古墳と丸山古墳はキトラ古墳と高松塚古墳の兄弟?〜でご紹介したように、明日香村から遠くはなれた京都府木津川市の県境にある上円下方墳の石のカトラ古墳が、キトラ古墳や高松塚古墳と同時期に造られた終末期古墳で、当時この南山城の地域は、渡来人たちによって伝えられた、先進的な文化・文明が咲き誇った地域で、高麗(狛)氏の拠点でした。
石のカトラ古墳は、この高麗(狛)氏が築造に深くかかわったと考え、被葬者を欽明天皇の非蘇我系の子孫:敏達天皇の第1皇子:押坂彦人大兄皇子(607年以前に死没)とし、4つの終末期古墳の増築順番を、キトラ→石のカラト→マルコ山→高松塚ではなないかとの自論をご紹介しました。
ここで再び石のカトラ古墳のある位置を確認しておきましょう。
以下の画像は以前にもご紹介していますが、飛鳥京の後に遷都された藤原京・平城京の位置も追記しました。これでわかるように、石のカトラ古墳は、飛鳥・藤原京・平城京の3つのどの都から見ても真北にあります。つまり風水学の基本思想陰陽五行思想」(いんようごぎょうしそう・おんみょうごぎょうしそう)の四神の玄武の位置にあり、風水では気のエネルギーが発生するところとされています。
飛鳥時代に造営された都(宮) 飛鳥時代に造営された都は上の表の通りで、藤原京までが飛鳥時代の都です。
そして石のカトラ古墳が築造されたのは定かではないものの、有力説では高松塚古墳の後、つまり4つの古墳の中では最後に築造されたのですから、その被葬者として考えられている忍壁皇子(おさかべのみこ、705年没) や弓削皇子(ゆげのみこ、699年没)の没年以後、つまり699年以後ということになり、これは、藤原京の末期か平城京の頃です。
ちなみに私の推論ではキトラ古墳の次、マルコ山古墳以前に築造されたとし、被葬者を石のカトラ古墳の被葬者を押坂彦人大兄皇子(607年以前に死没)としていますので、550年頃〜607年ということになり、これは豊浦宮(とようらのみや)〜小墾田宮 (おわりだのみや)の頃です。
ところで、平城京は、風水の思想(陰陽五行思想)を本格的に取り入れて建設された最初の都で、その前の藤原京では宮が都の中央にあり、その思想は反映されていません。
ということは、気のエネルギーが発生する北の山脈の中の石のカトラ古墳はやはり、都そのものが風水の思想(陰陽五行思想)に基いて建設されたに平城京遷都後にわざわざ墳墓内に陰陽五行思想の四神につながる天文図を描く必要はないと思え、石のカトラ古墳で天文図の痕跡らしき破片が確認されている以上、奈良時代の平城京への遷都後ではなく、飛鳥時代の前期、キトラ古墳以後、マルコ山古墳以前に造営されたと思えるのですが、いかがでしょう。?
念のため最後にラージスケールの風水の記述をご紹介しておきます。
以下に紹介したイラストは、快適エネルギーを一つも逃さない完璧な吉相図です。
北の山脈aは祖山、bは宗山(そうざん)といい、気のエネルギーが発生するところです。 fは穴(けつ)と言い、人体で言えばツボにあたる、生気が満ちあふれる最高の場所です。 気は山の麓へ流れ降りて穴にいったん貯えられます。 集まった気を散らさないように穴を護る、南を向いての左壁dを青龍(せいりゅう)・左砂(ささ)と呼び、右壁eを白虎(びゃっこ)・右砂(うさ)と呼びます。しかし、左右の砂がない場合、松のような常緑樹を抱護(ほうご)の松(c)として植えるのです。 gは明堂(みょうどう)と言い、気が集まる広場です。できるだけ大きく開かれていることが強運を呼びます。 iは集まった気を止めるために川や池があればいいのです。水には気を鎮め、エネルギーを受けとめる作用があります。北の山から来たエネルギーを南の水が受ける、南北軸は生命エネルギーの経路なのです。 hの案山もjの朝山も、穴を護っている南の砂です。小さい方が気の流れを邪魔しません。 後方(北)に玄武(げんぶ)という亀の怪物(どっしりした山)、前方(南)に朱雀(すざく)すなわち不死鳥、左(東)に青龍(せいりゅう)、右(西)に白虎(びゃっこ)。これらの四霊獣が四方を護っているように見える地形環境を、「四神相応(ししんそうおう)の地」と呼びます。 快適エネルギーを一つも逃さない完璧な吉相図
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