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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜六角型古墳にこだわって調べてみました。
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編  

−キトラ古墳のページ−                
またも失敗は生かされず キトラ古墳  壁面より剥ぎ取られ保存 四神壁画
四神壁画より興味深いぞ 星宿図の差 星宿図から推察してみる 被葬者は
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して                     

これまでに〜明日香村:終末期古墳4兄弟としてのマルコ山古墳六角型古墳のマルコ山古墳の概観をご紹介し、〜明日香村:マルコ山・石のカラト両古墳にも四神や天文図は隠れている〜では、マルコ山古墳六角形型になっている理由を四神玄武を表していると私論を述べました。
それにしても古墳が六角型だということにはとても興味を引かれます。皆さんはそんな事など露ほども気にせずスルーしてしまいますか?
でも私は思ったのです。六角形古墳にこだわって調べれば、きっと面白いことが見えてくるはずだと。

マルコ山古墳地図 マルコ山古墳1 - 明日香村より

という訳で、今回は六角型古墳についてご紹介します。
六角型古墳は現状ではマルコ山古墳・塩野六角型古墳だけで、当然関東にはないそうです。


イメージ 2
塩野六角古墳(表側)

イメージ 1
塩野六角古墳(裏側)

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塩野六角古墳の平面図

これらの画像や図を見る限り、塩野六角型古墳は二段築成の亀甲紋のような丸みを帯びた六角形のマルコ山古墳とは異なり、一段築成のほぼ正六角形のように見えますので、築造にあたっての事情も違うのかもしれませんが、マルコ山古墳との関連が全く無いとは限りませんので調べてみました。
塩野六角型古墳とは
塩野六角型古墳のある塩野六角型古墳公園は、日本で初めて墳丘(ふんきゅう)が六角形であることが確認された“塩野六角古墳”と、円墳の“塩野古墳”を中心とした公園です。
塩野六角古墳は、塩野岡ノ上山の中腹にあり、一辺の長さ3.8m〜4.4mとややいびつな六角形で、盗掘された形跡があり、出土品は7世紀中頃のものとみられる須恵器(すえき)3点だけでした。当時、このあたり一帯を支配していた豪族・山部三馬(やまべのみま)か、その一族の墓かといわれています。
古墳公園の入り口にある塩野古墳は、直径約7mの円墳と推計されています。また、石室の造りが変わっており、西播磨でも例がないだろうといわれています。古墳が造られた時期は、変則的な石室の造りから見て、古墳時代終末期とされています。
【播磨の国=姫路の歴史】
姫路ファン・学ぶによれば、塩野六角型古墳のある姫路は、大和時代に播磨とよばれ、明石国、針間鴨国(はりまかものくに:加西市)、針間国(はりまのくに)の三国に分けられていました。朝廷から国造に任命され、この針間国を治めていた豪族は佐伯氏(さえき)で、姫路・白国神社のある白国の台地に住んでいたそうです。
一言: 私が小中学生の頃に教わった大和時代は古墳時代と飛鳥時代に別れたようですが、飛鳥時代以前から播磨の地を治めていたのは佐伯氏だったようです。
当時の山陽道は、姫路市御着・深志野から小川を通って北へ上がり、姫路市花田の北部・松ヶ瀬で小川(市川の分流)を渡り、姫路市野里の西中島で大川(市川の本流)へ、姫路の広峰山麓白国から平野へぬけ、御立を通って書写山(姫路)の下の坂本へ、それから飾西へという道順となっていました。
それが大化の改新時に国郡の制度がとられ、播磨地方は三つの国が統合され一つの播磨国となり、12の郡を持つ大国となります。
そして大化の改新の後は郡から国司が派遣され治め、国司のいる役所の国府は、1981年の発掘によって姫山の東、今の姫路の総社付近にあったことが明らかになり、その広さも870m四方という広大な面積となり、豪族は仏教の信仰と自分の力を示すために、中央の貴族に習って大きな寺を建てるようになります。
また三井寺>連載>新羅神社考>兵庫県の新羅神社(4)には、以下の記述があります。
姫路市の北に白国(しらくに) (新羅国)という町があり、そこには「白国(しらくに)(新羅国)神社」がある。更に北の廣峯山には新羅大明神を祀る「廣峯(ひろみね)神社」がある。廣峯山から北は神崎郡や飾磨郡夢前町である。現在、新羅神社という文字を使っていないが、かつては新羅という文字が使われていた集落と神社が存在する町である。白国という名称は、古代に新羅系の渡来人が住み、新羅訓(しらくに)村といわれてきたことによるものである。白国は姫路駅の北方にある。白国にある神社はいずれも渡来の新羅の人々が「新羅の神」を祀ったといわれている。
古代から新羅系渡来人に係る伝承が多い。直木孝次郎「古代王権と播磨」には「飾麿郡の白国神社というのは「シラギ神社」ということであり、「白国村」というのは文字通り新羅の人たちが集まってできた村でしょう」と説明されている。
白国郷土史愛好会編(白国自治会)「ふるさと白国」という本の中に「神話による白国の起こり」という項がある。そこには「私達の故里(ふるさと)である白国の起源は遠く大和時代前期に遡る…景行(けいこう)天皇の皇子日本武尊が…同じ天皇の皇子・稲背入彦(いなせいりひこ)命が勅命を受けて、この針間(はりま)(播磨)地方を治めるために下向して来られたとき、先ずこの白国のあたりに住居を構えられたのが当集落のはじまりである。命はここを根拠として田畑を拓き水利をはかって、よく治世の実をあげられたので一名を針間別(はりまわけ)(別とは長官という意味)ともいった。この命が私達白国住民の先祖である…」と書かれている。この説明と「播磨風土記」の文章を読み合わせてみると、「景行天皇や皇子は新羅系の人々であった」ということになる。「ふるさと白国」には「播磨風土記」についての説明もある。なお、713年に編纂された播磨国風土記の牧野里(ひらののさと)の条に「新羅訓村(しらくにむら)あり曰く、新羅訓と号えるゆえんのものは昔新羅の国人来朝の時この村に宿せり。故に新羅訓と号す。山また同じ」と。
一言姫路ファン・学ぶ三井寺>連載>新羅神社考>兵庫県の新羅神社(4)の記述から白国には佐伯氏新羅の渡来人が暮らしていたようですが、その関係性を記したページは姫路以外でも見つかりませんでした。新羅人の末裔が佐伯氏なのか、それとも白国では新羅の渡来人を束ねていたということでしょうか。
塩野六角型古墳の被葬者と考えられている山部氏について】
山部連の祖である伊予来目部小楯播磨(いよのくめべの おたて)は、九州から四国伊予国に本領を移した久米氏の家督相続予定者で、朝廷に仕えて播磨国司となります。
それ以前、大和の国ではまだ政権が安定しておらず、安康天皇は眉輪王によって暗殺される前の生前に子供は無く、市辺押磐皇子(履中天皇の第1皇子)に王位を継承させ、後事を託そうとしていたが、これを恨んでいた大泊瀬皇子によって暗殺されます。
そこで予来目部小楯播磨清寧天皇のために皇族の血を引く者を探し出すという命に応じて播磨の地に隠れ住んでいた市辺押磐皇子履中天皇の第1皇子)の子である億計(おけor億計王)と弘計(をけor弘計王)の兄弟を発見し、その功績を認められて山城国山部に所領と山部連氏をたまわります。そして億計(おけ)顕宗天皇弘計(をけ)は、仁賢天皇になります。
一言この頃の皇族内の血で血を洗う王位争いは、顕宗天皇 - Wikipediaなどに紹介されていますが、とても複雑です。古事記・日本書紀に記されたいわゆる神話なのですが、史実性もあるとされる傾向にあるそうです。

法隆寺再建と山部氏にはこんな記述もあります。
岸俊男氏の研究によれば、斑鳩がある地は奈良時代には夜摩郷という地名で、もともとは山部氏に因んだ「山部郷」でした。桓武天皇になった山部親王の名を避け、奈良時代に「夜摩郷」と変名されました。山部氏は、顕宗天皇より山官の役を賜り、その後山部や山守部を管掌していました。法隆寺が天智紀に全焼し、その後の再建にこの山部氏が関わっていたことは、木の伐採という仕事上からも想像できます。山部氏は法隆寺の後山である平群山に本拠地を構えていました。また、法隆寺の所領地が播磨国にされた理由として、山部氏が雄略天皇時代から播磨国司で億計王・弘計王の発見などに関わっていたことが少なからず関係しているのではないかと考える説もあります。山部氏は創建法隆寺に木材を提供する氏族として貢献したと思われます。
山部氏について調べるに当たって、「顕宗紀」「允恭紀」「雄略紀」と読み下ってみたのですが、「雄略紀」において、雄略天皇の残虐行為に狭間に「秦酒公」の記事が書かれていて、それ以外にも「機織り」に関する記事が何となく目についていました。 京都太秦にある「大酒神社」の縁起に書かれていることは、雄略天皇の時代だったことに改めて気づきました。 漂流の民として秦氏と山部氏は何らかの関係があるのかもしれません。物部氏ー中臣氏ー山部氏ー秦氏は相関関係にあるような気がします。

ちなみに、予来目部小楯播磨の子孫:山部氏からは、有名な山部赤人(歌聖と呼ばれ、万葉集に多くの優れた和歌を残している。)が排出されます。

ここからが本題です。
四神に関係する調べ
東西南北の地形を四神に見立て、青龍は大河、白虎は道、朱雀は水辺、玄武は丘陵と定め、これらに囲まれた土地が、地相や方角を占う風水のうえからも繁栄のための最適地と考えた土地に都を選び、それは京都で言えば、御所の背後(北)を船岡・鞍馬山が守り、東に鴨川、西に山陰・山陽道、南には巨椋(おぐら)池が四神相応にかなう要でしたが、姫路の地は都であったことはないのに、広峰山が北にそびえ、支流が一本に集められ大河となった市川が東に流れ、西国街道が西へ延びる。そして南に瀬戸内海。御所にあたる場所は、姫路城といった具合に四神相応の風水都市だったようです。
一言ただしそれは江戸時代のことで、このことの基となったのは、安陪清明だとしていますが、それでも時代は平城京以後の平安時代です。それ以前の塩野六角型古墳には四神相応(陰陽五行の考えは無かったのでしょうか。
イメージ 4

このように、播磨の国(現在の姫路)にも大和政権による統治は強く及び、平野部の北側にある塩野六角型古墳は、やはり高松塚古墳キトラ古墳などと同じ終末期の古墳で、被葬者として有力視されている山部氏は、朝廷より派遣された国司でした。
この古墳が六角型である理由については分からなかったものの、平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明に起因して少なくとも江戸時代の姫路城は四神相応の思想で街づくりが行われました。
上図は、歴史のかたち|四神相応の都市をみる - 播磨陰陽師に紹介されている姫路城にかかわるスポットをしめした図に、塩野六角型古墳渡来人にかかわる白国神社・新羅神社や、四神相応に関係する書写山の位置を加えてみました。
塩野六角型古墳四神相応にかかわる記述は見つからなかったのですが、
山部氏が国司として播磨の国一帯を治めていたのなら、書写山や広峰山は宗山(そうざん)、その奥の北の山脈は祖山として玄武に対応します。更に気のエネルギーが発生する穴(けつ)の位置には白国神社や広峰神社が存在しますし、朱雀に対応する水の集まる所としては、瀬戸内海と見ることもできます。ただ、青龍・白トラに対応する山となると弱いかもしれません。
7世紀中頃(650年前後)の古墳とされる塩野六角型古墳は、有力説に従えばマルコ山古墳・キトラ古墳・高松塚古墳・石のカラト古墳のどれよりも少し以前に建造された古墳ということになりますが、
中国で隋が滅んで唐が建ったのは619年で唐の時代には四神相応(陰陽五行)の思想が確立されていたのなら、650年に遣唐使や遣唐使とともに来た渡来人によって四神相応(陰陽五行の思想が伝来していたとしても不思議はありません。
ただし、中央の大和政権の地ではない播磨の国においては、中央政権の墳墓を真似ることはあっても、それを超える墳墓を建造することは出来ません。だからこそ斜面の下部に従来の円墳として塩野古墳を建造し、斜面の上部には小規模かつ簡素でありながら、四神の玄武を象徴する形の古墳、つまり塩野六角型古墳を建造したのかもしれません。

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