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〜平城京:陰陽五行思想に太陽信仰が加味された都〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
明日香村についてのご紹介はまだまだ続くのですが、前回も六角型古墳に興味をもって脱線してしまいました。
飛鳥の終末期の古墳陰陽五行との関係を探る中で飛鳥時代を越えて平城京についても触れることとなりました。
そこで今回から明日香村を一旦離れ、平城京についてご紹介します。
前々回ご紹介したように飛鳥時代には、天皇が代わる宮を造営して移し、やがて都としての機能が飛鳥の地では収まりきれなくなると、山の麓にある飛鳥から広い奈良盆地へと遷都されたのが藤原京でした。
ところがやがて平城京に遷都されます。
平城京遷都の理由を考える|西陣に住によれば、藤原京は都の中心に宮を置いたことが歴史上類を見ない特徴だったとし、その理由を詳しく推察しています。
その内容を要約すると、当時の日本における交通の大動脈は瀬戸内海だったので、物流などにおいて瀬戸内海へと流れ込む大和川が利用できたことが大きかったようです。
ところが、奈良盆地の南側に位置する都だったために、水路の拠点は都の北に置かれたため、宮を他の都のように北に置く事が出来ず、かといって南に置いたのでは飛鳥の地と変わらないために、宮を中心に置いたのではと記しています。ただ、生活廃水が南の山手側から流れ込むという欠点を持っていただろうと。
そして702年に33年ぶりに遣唐使が派遣され、宮が都の中心にある藤原京のスタイルは、大陸の都ではありえないことに気づいた朝廷は、藤原京から遷都のおりには、唐の都:長安の西安城を強く意識するようになり、遣唐使派遣から間もない710年に、平城京(710〜794年)が建都されたのだろうというないようでした。
そして都を奈良盆地の南端にあった藤原京から北端に位置する平城京へと移り、宮を北に配したことで、基本的に南よりも北の標高が高く、川は北から南に流れ、藤原京での欠点はなくなり、北に位置する大極殿などもよりいっそう立派に見えるという効果も出ました。
古代宮都の変遷
肝心の平城京が風水思想でいう 「四禽図に叶う」四神相応の地であったかどうかですが、
平城京遷都の理由を考える|西陣に住ではこの点について、
「北東西南に山・川・道・澤が対応しているとは言い辛く、
北に平城山、東に佐保川、西に日下の直越え道、南に越田池に対応させるという説がありますが、あんまりパッとせず、一方、「三山鎮をなし」という北東西を山に囲まれているとす説もあり、北に平城山、東に春日山、西に芳來山に対応する説も、芳來山に対応するとしている垂仁天皇陵を山とするのことや西を代表する位置にないことから疑問があるとしています。
その反面、重要な寺社が都の東側の位置に集中していることに着目して、春日大社という名にも反映されているように春を強く意識し、重要視しているとしています。
私の理解するところでは、これはやはり天孫降臨より始まる天皇家の守護神:天照大神を太陽神として、その庇護のものに都があることを最重要視した結果だと思えます。
大陸からもたらされた文化をそのまま取り込むのではなく、大陸の都にはない独自のこだわりをもって、四神相応の地に加味されたのだと思います。
わが国が古来より、神いずる国であったればこそ。
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