|
〜平城京:遷都前の動き、大化の改新でなにが変わった?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
前回のページでは、中大兄皇子が実母である皇極天皇の子であり自身の実弟:軽皇子(後の孝徳天皇)を即位させ、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革を行った大化の改新までをご紹介しました。それは飛鳥時代の政変で、平城京遷都までまだ65年があります。
ここで前回のページから第四皇女でありながら平城京への遷都を成した元明天皇の父:天智天皇には大田皇女・鸕野讃良皇女・建皇子・御名部皇女・阿閇皇女・山辺皇女・明日香皇女・新田部皇女・志貴皇子・大友皇子・阿閇皇子・阿雅皇女・川島皇子・大江皇女・泉皇女・水主皇女と分かっているだけで5人の皇子と11人の皇子、計16人の子女がいました。
前回からの続きを、順を追ってお話しましょうね。
太極殿だけが画面奥に威厳を示しています。
前回のページでご紹介したように中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)の誘いを受けて乙巳の変(いっしのへん)で蘇我氏宗家を滅亡させ、直ちに実母である皇極天皇の子であり自身の実弟でもある軽皇子(後の孝徳天皇)を即位させ、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行ないました。
実は乙巳の変の直後、皇極天皇は退位して中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄皇子と中臣鎌足との相談の結果、皇位を軽皇子に譲り、中大兄皇子が皇太子になったというのが真相で、これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されているそうです。
この大化の改新という国家体制の大きな改革を伴う政権交代は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられていて、
最初の中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、乙巳の変の当時、鎌足の出身である中臣氏は朝廷の神祇を司っている名門の家柄ではあったが、政治的実績では蘇我氏や大伴氏・阿倍氏などより一段劣っており、制度上の臣下中最高位である左大臣・右大臣に中臣氏出身の鎌足を付ける事は古くから朝廷の政治に関って来た豪族の反感を買う可能性があった。そこで特別に「内臣」という役職を設けて、鎌足が政権中枢に参画できるようにしたのである。なお、鎌足の死の前日に特に鎌足に大織冠を授けて「内大臣」とされている。
( 律令制下,諸国に一名ずつおかれた国学の教官。その人材は国内もしくは近国から選ぶ。)
6月19日、
(一言:要するに、天皇こそが絶対の存在で、それに並ぶ勢力を認めないと宣言したわけです。)
8月5日、
東国に国司を遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。
(一言:つまり、とりあえず速攻で体制が一新され、その政権下で各国を治めるという姿勢を形として示し、その後徐々に組織を改正・強化しようとしたのでしょう。)
鐘櫃(かねひつ)の制を定める。
朝廷に鐘と匱をおき、訴えのある者はその首長を介して訴状を匱に投書させ、それでも訴えが取り上げられなかったときは、訴人に鐘を打たせるようにした。
(一言:裏を返せば、民の不満は首長などを介さなければ訴えられず、群衆による突発的な反乱を制御しやすく、民の不満は実際には封じ込まれたのでしょう。)
男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。
内容は,(1) 良民の父母の間に生れた子は父に帰属させる。 (2) 父母のいずれか一方が奴婢である場合には,その子は奴婢とする。 (3)それぞれ主人を異にする奴婢の間に生れた子は,母方の婢に帰属させる。というものです。
(一言:ほらやっぱり、下級民は、死ぬまで下級身のまま定着させたのです。最悪!)
9月には、
(一言:いつの世も派遣を握った者のやることは同じです。不穏分子(ふおんぶんし)は地の果てまでも追いかけて、根絶やしに。)
(一言:大阪城の真横に難波宮跡がありますよね。大化の改新にかかわる一連の粛清(しゅくせい)の実行犯ではない天皇は、血塗られた大和の国からなるべく遠くに離れたかったのかも。虫のいい話ですが。)
肝心の大化の改新の概要とその後の動きは次回にて、 ![]() |
全体表示
[ リスト ]



