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〜平城京:大化の改新の概要とそれに加担した女性天皇〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
先日より飛鳥時代のお話を、平城京へ遷都されるまでの経緯としてご紹介しています。
気持ちいい晴天の日で良かったですね、お互いに。
昨今のことは知りませんが、私たちが歴史の試験勉強で大化の改新の起きた年を覚える時には、
『蘇我の虫(64)いつ(5)か滅びて大化の改新』で645年と覚えたものです。
まあゴロ合わせなのですから深く考える必要はないのですが、前回のページで記したように、蘇我入鹿は暗殺されたのです。
共犯者でもない天皇の御前で惨殺して暗殺と言えるのか?とも思うのですが・・・・ともわれ、大化の改新の最大の目的は、有力豪族の勢力を抑え、徹底的に中央集権化を進めることが最終目的でした。
ではその概要は?というと、
① 公地公民制
それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。
(一言:私に言わせれば、これは国土の独占的私有化としか思えません。)
② 国郡制度
今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。
(一言:お上が国土を一括して管理したということです。)
③ 班田収授の法
(一言:これはもう民を農地に縛り付けて農奴と化した前代未聞の悪法です。)
④ 租・庸・調
公民に税や労役を負担させる制度の改革で、
租は、田の収穫の3%〜10%に当たったといいます。とはいても当時は干ばつや冷害などによって極端な不作も少なくなかったはずで、それでも例年の徴収率の7割はおせめなければなず、徴収した米を種籾(たねもみ)として貸し与えて利子を取ることで国税の安定化を図ったというから、不作のたびに農民の暮らしは悪化の一途をたどるほかはなかったでしょう。
更に庸という元来は、毎年成人男性に課せられた京への労役義務の代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したおよそ京以外の地方には課せられます。
更に更に調17歳〜20歳の男性に対して課された繊維製品もしくは特産物による地方に対す税もありました。
これだけ聞くと中央の眼の届かない地方にはより思い税をかけることで、地方の国々が力を持つことを押さえ込んだと思え、地方に比べれば中央の農民は比較的楽なようですが、恐らく京の民は宮廷の造営や公共事業など、事あるごとに労役を強いられたにちがいありません。
という事で、いよいよ本題です。
まずはウィキペディアに紹介されている天皇の系図に元明天皇の天皇にならなかった兄弟やその親などを追記した以下の系図をご覧下さい。
皇極天皇から順に歴代天皇を並べると、
そこで、とりあえずこれらの天皇の皇位を退く時の理由などを書き示してみます。
とにかくこの方の生涯がややこしい。だからこそ日本書紀の神話になった?のですが・・・。
そして二度目の結婚で舒明天皇との間に、中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)という三人の子を産みます。初婚の相手は高向王でした。
(一言:つまり高向王についての結婚前のことや、漢皇子の生涯については全くわからないということです。仮にも第四皇女として生まれ、後に4人の天皇となる子を産んだ夫とその子なのに。) しかし、歴史家の間ではそれが本当なのか疑いが持たれているそうです。
謎の高向王には、「高向王は用明天皇の孫とされています。用明天皇は聖徳太子の父として有名ですが、この天皇は3人の女性との間に太子も含めて7人の皇子と皇女がいて、この7人の皇子・皇女の子の一人が高向王だそうです。では用明天皇の子のうちの誰が高向王の親なのか? 実はよく分からない。ただ、少なくとも高向王は皇位継承権のあるような人物ではなかったことは確かで、宝皇女(皇極天皇)はそういう人物とはじめ結婚したことになり、当然ながら、皇族として陽のあたらない地道な生活を余儀なくされたことだろう。漢皇子はそういう二人の間にできた子なのだそうです。
(ちなみに:漢皇子については、天武天皇についての記述で、重大な仮説を紹介します。)
二人に何があったのか分からないが、結果として、宝皇女は再婚し、後に天皇となる子を産んだという
ことだけが日本書紀に記されているのです。
舒明天皇が崩御したのは、三人の皇子を生んで後の641年11月、皇后は48歳でした。
そして舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年1月、 49歳で皇極天皇として即位します。
中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)によるクーデター(大化の改新)に加担し、蘇我氏宗家の滅亡がかなうと、この政変の首謀者である中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)の後ろ盾を得て、実弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲ります。これは日本史上初の譲位とされます。
(ちなみに:643年、皇極天皇が50歳の時には、更に飛鳥板蓋宮へと宮を移します。)
その後の天皇については、次回に記します。
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